コソボ独立に国際社会の見方がなぜ割れるのか?

 南ヨーロッパ・バルカン半島に位置する国。コソボ共和国が2018年2月17日、独立10周年を祝う記念式典を執り行いました。でもなぜか、隣国セルビア・ロシア・中国など、コソボ独立を認めない国は10年を経ても数多くあります。経済支援する国があるにも関わらず、コソボ独立に世界の見方が二分しているのはなぜでしょう?

バルカン半島の部族対立は古代から

 コソボ独立の認否が各国で割れている理由を探るには、バルカン半島の歴史を辿らなければなりません。古来、バルカン半島にはイシュリア人という原住民が部族間の争いを絶えず続けていました。紀元前168年に最大の独立国だったイシュリア王国が滅びると、ローマ帝国に併合されます。

 以来、コソボ領域内はローマ帝国から分裂した東ローマ帝国(以後、ビザンツ帝国)。ポーランドから南下したスラヴ人、西アジアから遊牧してきたブルガール人で形成されたブルガリア帝国。二大国家の係争地として争われました。この動乱の過程で、スラヴ人はコソボ地域にまで南下。イシュリア人は他の地域へ分散するか、スラヴ人と共存するかの選択を迫られます。この時、南へ移動した部族はアルバニア人、共存してスラヴ人と交配した部族がモンテネグロ人に。定住したスラヴ人がセルビア人となったと言われています。

聖地 コソボ平原

 12世紀後半、ビザンツ帝国の衰退を好機にセルビア人はセルビア王国を建国して独立を果たします。一時はセルビア帝国となり、バルカン地域を南北に領土を持つ規模に発展しました。しかし皇帝ウロシュ4世の死後、王朝は統率力を失いセルビア国内では貴族が対立します。加えて、東から進行するオスマン帝国にマリツァの戦いで敗北。帝政が崩壊し、セルビア公国(王国ほどの統治力がない有力な貴族が筆頭となり治める国)となりました。

 再起をかけてセルビア公国は1389年、他のバルカン半島の各独立国と連立して諸侯軍を組みます。コソボ平原でオスマン帝国と戦って大敗を喫したものの、敵将ムラト1世を殺害した会戦。コソボの戦いは、当時セルビア公国の主要都市圏だったコソボ平原をセルビア人が聖地化するキッカケとなりました。オスマンはその後、イスラム教徒となったアルバニア人をコソボに定住させてバルカンへの進行を続けます。セルビア公国はハンガリー王国と協力して抵抗を続けました。ですが、親オスマン派の策略によって1459年にオスマン帝国に征服されます。コソボ平原をアルバニア人に入植された挙句、独立国家も失ったセルビア人はハンガリー王国領内へ逃げ延びました。その後約400年、差別を受けつつも反オスマン勢力と共闘して抵抗を続けました。セルビア人はなぜ、コソボの地にこだわるのか。それは、長い苦行時代にセルビア人達が民族悲劇の地「コソボ平原」を聖地として崇めるようになったからです。

民族独立運動によって「ヨーロッパの火薬庫」に

 オスマン帝国はバルカン半島一帯を領地とした後、北欧で勢力を付けた帝政ロシアと衝突を繰り返します。計12回行われた露土戦争は、18世紀末に入るとバルカン地域の諸民族独立にも絡む戦乱に発展します。この時コソボやセルビア地域では、オスマン帝国統治者とアルバニア人守備隊が手を組み統治していました。対してセルビア人は何度も独立反乱を鎮圧され、統治者側から暴政を振るわれる対象となっていました。反旗を翻そうとセルビア人は、オーストリアの義勇軍となりオスマン帝国と戦います。この動きにオスマン側はコソボやセルビアの汚職統治者を追放しました。しかし、新たな統治者もセルビア人の中心人物を大量殺害します。怒りの限界点を超えたセルビア人は、コソボ領内を含む旧セルビア公国内でロシアの支援で2度蜂起。セルビアは旧領土の一部で自治権を獲得したのです。さらに続いたギリシャ独立戦争に乗じ、完全な独立を勝ち得ました。

 その後、触発されるようにバルカン半島各地の民族は独立運動を起こします。アルバニア人も例外ではなく、1878年にコソボの都市プリズレンにて政治機関のプリズレン連盟を発足させました。しかし、連盟の運営は難航を極めました。なぜなら、長年の大国対立により分断されたアルバニア人は4つのコミュニティに分散されていたのです。それぞれのコミュニティにおける宗教や言語の違い。加えてオスマンの軍事介入が起因して、プリズレン連盟は解体されます。特にプリズレン連盟が結成されたコソボでは、暴動が20世紀初頭まで続きました。なぜ、バルカン半島が「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれるようになったのか。それは、こうした闘争激化が国際社会へ影響を与え始めていたからです。

オスマン帝国の崩壊 ユーゴスラビアの誕生

 20世紀に入ると革命勢力の青年トルコ党が力を付けて、コソボのアルバニア人蜂起を支援します。同時にアルバニア人たちは、アルバニア語による教育や出版物の発行を進めました。しかし、青年トルコ党は革命に成功すると、アルバニア語の使用を禁止します。なぜなら、青年トルコ党の目的は純粋なオスマン臣民意識を国土全土へ根付かせることだったからです。当然、こうした動きにアルバニア人は反発します。セルビアやモンテネグロなどの独立国家が武装蜂起するのと相乗りしてバルカン戦争に突入し、アルバニア人たちは勝利しました。にも関わらず、セルビア人は戦争中にコソボ在住のアルバニア人を虐殺しています。加えて、コソボ地域はセルビアとモンテネグロによって分割統治されました。敵対国家を打倒するため組んだ勢力に、二度も裏切られたのです。

 こうした一連の混乱は第一次世界大戦の開戦の遠因にもなり、更なる混迷を招きました。開戦後にブルガリアが、オールトリア=ハンガリー帝国と共闘してコソボを占領します。セルビア軍は前線をギリシャまで撤収させますが、イギリスなどの支援もあり勢力を回復。再びコソボを占領し、またしてもアルバニア人に蛮行を行いました。一次大戦後、戦勝国となったセルビアは、同じスラヴ人でオーストリア=ハンガリー帝国の統治から解放されたクロアチア、スロベニアと共に王国を建国します。 東西どちらにも肩入れせず冷戦期に存在感を示した国家。「ユーゴスラビア」の誕生です。

ユーゴスラビア内でのコソボ

 ユーゴスラビアが建国された後も、コソボのアルバニア人は抵抗を続けます。国際社会に、隣国であるアルバニアへの統合を求めたのです。積極的に武力闘争も行われたこともあり、ユーゴスラビアはこれを弾圧しました。一方セルビアは、ユーゴスラビア内の中心国家として権力中央化を行い、構成国との軋轢を生じるキッカケを作りました。第二次世界大戦がはじまると、最初は枢軸国側に付いたユーゴスラビアですが、中立の立場を明確にします。なぜかと言うと、各民族間対立を激化させる恐れがあったからです。これに業を煮やしたドイツは、ユーゴスラビアを占領。セルビア人と対立していたクロアチア人に傀儡国家の建国を認め、セルビア人への虐殺を始めました。皮肉なことに、ユーゴスラビアの誕生が新たな民族対立を生んだのです。

 この時の混乱に乗じ、コソボの大部分はアルバニアとの統合を実現しました。イタリアの傀儡国家だったとは言え、民族統一の機運が高まった時期でもあったのです。ですがイタリアが早々に降伏すると、ユーゴスラビアの共産主義勢力パルチザンによってコソボは分離され終戦を迎えました。その後はパルチザンの指導者達により、アルバニア人に配慮したコソボ自治州の境界が設定されます。なぜなら、セルビア人中心に結成されたパルチザンにとって、コソボは脅威となりえる地域に変わりなかったからです。ユーゴスラビア内政も、大統領チトーの指導力によって安定が保たれていました。そして、チトーの死と東西冷戦の終結によって、抑制されていた民族対立が再燃するのです。

民族協調崩壊 コソボ紛争へ

 二次大戦後、一定の配慮がされながらもコソボは独立構成国家として認められませんでした。さらに、ユーゴスラビア最貧地域でありながらアルバニア人の出生率は高く、コソボ内のセルビア人比率は急激に減少していました。こうした変化により、チトーの死後すぐに国家への昇格を訴えるデモがコソボ各地で展開されます。対してセルビア人を中心とするユーゴスラビア政府はこれを認めず、コソボ自治州の自治権停止に舵を切ります。これが、アルバニア人達の独立運動を激化させる主要因となりました。

 1991年、クロアチアとスロベニアの独立宣言を皮切りに、ユーゴスラビア崩壊が始まります。コソボでも独立選挙が行われ、得票中98%の賛成が得られます。セルビアはこれを無効としますが、モンテネグロ以外の構成国が独立宣言する状況となり、対コソボ政策は後回しにされました。長くデモが活発に実施されていたにも関わらず、なぜなのか。ユーゴスラビア北部の紛争が激化して、そちらへ軍事介入を優先する必要があったのです。これらの紛争の終結は1995年になりました。ですが、ユーゴスラビアは紛争で被災したセルビア人難民を聖地コソボへ移住させる政策を執りました。なぜなら、当時ユーゴスラビアのミロシェヴィッチ政権が、セルビア人の支持基盤を固める狙いがあったからです。当然アルバニア人は激高し、アルバニア人により結成されたコソボ解放軍はユーゴスラビア軍と1998年に衝突します。この一連の動きにアメリカは、コソボ解放軍はテロリストとしながらも、本来アルバニア人の多くが非暴力で独立を訴えていた点などを評価。コソボは、旧西側諸国で結成されているNATO軍の軍事支援を受けることに成功しました。対してセルビアは、同じスラヴ人国家のロシアを通じてコソボとNATO軍との停戦に合意します。しかし、ユーゴスラビア軍はコソボの駐留を続けたこともあり、双方小規模な虐殺が頻発しました。この状況をアメリカは、マスメディアを通じてセルビアの虐殺行為だと非難したのです。

 1999年になり、アルバニア人側とセルビア人側でランブイエ和平交渉が実施されます。この合意案の中には、セルビア人側に不利益なコソボ内のNATO軍駐留などが条件に組み込まれていました。セルビア人側に見方するロシアは反発し、交渉は破談します。コソボ領内のユーゴスラビア軍駐留も続いたため、NATO軍は1000機以上の戦闘機でユーゴスラビア全域を空爆しました。ですが同時に国際社会の非難も湧き上がり、NATO軍は対応に苦慮します。なぜなら、アルバニア人や非参戦国である中国の大使館を誤爆するなどの行為が明るみになったためです。両陣営は対応を迫られ、1999年6月にユーゴスラビア軍は撤退。NATO軍指揮下のコソボ治安維持部隊が、コソボ全土に派遣されました。同じくして、国際連合コソボ暫定行政ミッションも設置されます。この紛争により、コソボ領内の大きな戦闘はようやく終結しました。しかし、コソボとセルビアの対立は、アメリカとロシアの対立に組み込まれる形で終わったのです。

ついにコソボが独立

 紛争中に暴政を振るったセルビアのミロシェヴィッチは非人道主義者として、国内外から非難を浴びました。政権も転覆し、国際司法裁判所のあるオランダへ移送されて、セルビアに戻ることなく亡くなりました。ユーゴスラビアも、2006年のモンテネグロ独立を経て消滅しています。一方コソボでは他民族で構成されたコソボ警察が発足し、2004年に発生した紛争後最大の暴動に対して特別捜査チームを結成後に鎮圧。国連仲裁の基、独立に向けたコソボ地位プロセスが開始されました。コソボとセルビア、双方に草案が提示されNATO加盟国と国連安保理はこれを支持しました。にも関わらず、この時にコソボ独立が国際的に認められなかったのはなぜでしょう。ロシアが拒否権を何度も行使したため、採択が延々と伸び続けたからです。

 結局、コソボ地位プロセスは失敗に終わり、2008年2月17日にコソボ議会は一方的な独立を宣言する運びとなりました。旧西側諸国はすぐに独立を承認しましたが、ロシアやセルビアなど旧東側に立つ国家は独立を認めませんでした。こうして国際社会で、コソボ独立の見方が二分する結果を招いたのです。

総括

 バルカン半島の歴史が、大国の民族政策による対立によって動いていったこと。そしてコソボ平原がセルビア人とアルバニア人、お互いにとって大切な地域であることがご理解いただけと思います。また、コソボ紛争を経て、アルバニア人に親米感情が生まれました。首都プリシュティナにはビル・クリントン元大統領像が建てられ、夫人のヒラリー・クリントン氏に因んだお店もあります。一方、セルビアやロシアは独立反対の立場を貫いていて、民族問題を抱える中国や南米諸国などもこれを支持しています。コソボと同じような独立問題を抱えている国が、まだ世界各地に散見している表れでしょう。バルカン半島の歴史を知った皆さんなら、こういった独立問題解決の難解さ。お分かりになると思います。

 日本においても関係がない話ではありません。なぜなら、アイヌや琉球文化の衰退、在日朝鮮人問題が根深く残っているからです。遠く離れた地域だとしても、普段から民族問題への意識は持ち合わせていたいものです。