コソボ紛争の原因と経緯を探る

 東西冷戦終結後、旧ユーゴスラビア連邦では構成国家同士による紛争が勃発。20世紀末まで、南ヨーロッパのバルカン半島では戦乱が続きました。その末期に発生したのが、コソボ紛争です。今日のコソボ独立問題における直接的原因で、アメリカとロシアの対立構造にも影響を与えました。コソボ紛争の原因、経緯をこの記事では説明してきます。

ユーゴスラビア崩壊の序章

 コソボ地域に住むアルバニア人とセルビア人の対立は、最初に歴史的経緯を知ることが欠かせません。「コソボ独立になぜ国際社会の意見は二分するのか」では、史実を辿りながらコソボ紛争の浅からぬ原因に触れられます。良ければご一読して下さい。

 直近のコソボ紛争の経緯を知るには、ユーゴスラビアの成立から崩壊に触れる必要があります。ユーゴスラビアは、第二次大戦終結後すぐ。大統領に就任するチトーが率いるパルチザンによって社会主義国家となります。後にソ連と距離を置き、自己管理社会主義という独自の経済システムを構築しました。これは、労働者や市民らが自ら代表を決め、企業を運営する考えでした。しかし、自由主義的な要素を含んだ方法だったが故、国の根幹である共産主義思想と矛盾が生じます。加えて、毎年高いインフレを発生させて国債を発行し、ローン支払いなどを国民に推奨していました。自国で築き上げた制度が原因で、ユーゴスラビアの国家体制は次第に傾き始めます。そしてチトーの死後、民族対立が表面化します。

 特に、ユーゴスラビア内最貧地域だったコソボの失業率は1981年には約40%、1988年には60%に届く水準にまで悪化。社会的総生産(資本主義におけるGNP)指数も、富裕地域のスロベニアと約1/8もの差がありました。こうした経緯から、西ヨーロッパへ出稼ぎに行くコソボ出身者も増加します。これらの経済問題が原因で1981年、コソボのアルバニア人住民は死傷者を出す決起を起こしました。先に挙げた失業率増加が示すように、コソボ経済はその後疲弊し、アルバニア人の憤懣も増大していきました。これに、西ヨーロッパへ出稼ぎに出ていたコソボ出身のアルバニア人も敏感に察知します。一部の出稼ぎアルバニア人は、後にコソボ解放軍を結成。コソボ紛争を引き起こす大きな原因となるのです。

ミロシェヴィッチ政権の親セルビア人政策

 ユーゴスラビア各地で民族対立が鮮明と化していた1987年。コソボのアルバニア人にとって、政治的に痛手となる2つの出来事が発生します。第一に、パルチザン闘争からコソボの指導者だったホッジャが、与党のユーゴスラビア共産主義者同盟幹部から除名されました。沸き立つアルバニア人の民族主義を抑えられなかった責任を問われ、辞任に追い込まれたのです。ただしその実、ミロシェビッチなどが推し進めるセルビア人優位の政策運営を促す目的がありました。

 これが原因と相まって第二に、コソボのアルバニア人へ火に油を注ぐ出来事が起きます。コソボに住むセルビア人の抗議デモを鎮静化させるため、ミロシェビッチがコソボへ入ったのです。コソボ自治州内はアルバニア人住民が多数を占める地域、行政も当然アルバニア人が握っていました。歴史的経緯も含み、セルビア人の迫害がコソボ領内では横行していました。ミロシェビッチは現地のセルビア人が歓迎する経緯を察し、「君たちは祖先のためにもここに留まるべき」と演説したのです。コソボには、セルビア人が悲劇の聖地と崇めるコソボ平原があり、民族対立の大きな原因となっていました。無論、民族感情を逆撫でされたアルバニア人は猛反発してデモが活発に。対策としてユーゴスラビアは、コソボの自治州権限を縮小します。挙句、1989年にコソボ平原で記念式典を執り行い、セルビア人の団結を叫んだのです。

コソボ独立宣言はクロアチアとスロベニアの紛争へ

 一連の経緯を横目で見ていた連邦構成各国家は、これに反発を強めて独立へ動き出します。式典開催場所となったコソボは先立ち、1990年に一方的に独立宣言。対してセルビアは、自治州政府や議会を解散させました。しかし、各国へ触発された動きは止められません。1991年には、クロアチア、スロベニア、マケドニアの3ヵ国も独立を宣言します。特段、セルビアとクロアチアは長年対立していたことが原因で、4年に及ぶ紛争に突入しました。この年にコソボでは独立を問う選挙が実施され、賛成多数で国家樹立が宣言されます。セルビアは当時、選挙に関する一連の経緯を認めていません。しかし、クロアチア紛争の対策に苦心し、対コソボ政策が疎かになっていました。大統領に就任したコソボ人民運動のルゴヴァは、非暴力による訴えを展開します。ただコソボ人民運動も一枚岩ではなく、戦闘によって独立を勝ち取ろうと動く構成員もいました。出稼ぎのアルバニア人と合流したこの一派が、先に挙げたコソボ解放軍として紛争を戦うのです。

セルビアとコソボ 衝突

 クロアチア紛争が終結するとセルビアは、紛争発端の原因となったコソボ地域の弾圧を強めます。既にセルビア政府の施設などを襲撃していたコソボ解放軍は、一部アルバニア人から支持を集めていました。ただしコソボ解放軍はセルビア人だけでなく、穏健なアルバニア人からもテロリストと見られていました。クロアチア紛争への経緯を作ったアルバニア人の多くは、二の轍を踏みたくない思いが強かったのです。しかしアルバニア人の世論を変える原因となった一大事が、1998年に発生しました。セルビア軍治安部隊が、コソボ解放軍の掃討作戦を開始したのです。激情に駆られた多くのアルバニア人は闘うことを決意し、コソボ解放軍の入隊者数は跳ね上がります。ルゴヴァが呼び掛けた非暴力風潮は、民族虐殺とも取れる軍事作戦が原因で掻き消えました。

 一方、セルビア軍側はコソボ解放軍掃討に乗り気ではなかったと言います。先のクロアチア紛争などで敗色が濃くなった際、ミロシェヴィッチ政権は早々に軍の支援を打ちきったのです。他にも、クロアチア紛争などで発生したセルビア人難民をコソボへ転入させる政策。コソボ解放軍を意図的に泳がせ、転入間もないセルビア人の虐殺を図って世論を煽るなど。複数の経緯からユーゴスラビアの独裁者として、セルビア人からも忌み嫌われるになっていました。さりとて軍備では最初、セルビア軍側に分がありました。コソボ解放軍が戦闘慣れしていないこともあり、戦況は一進一退を続けます。しかし、隣国のアルバニア北部で軍事ビジネスが活発化した経緯もあり、コソボ解放軍の武装は強化されます。次第に均衡は崩れ、コソボ解放軍が優位に立ち始めました。

NATO介入による終戦

 コソボ紛争が激化すると、ボスニア内戦で仲裁に当たっていたアメリカが停戦へ動き出しました。暴政が原因となりコソボ紛争を開戦させたとして、ミロシェヴィッチ政権へNATO軍の空爆をちらつかせたのです。合わせてコソボ解放軍は戦闘を停止し、NATO軍が派遣されます。対してセルビア軍は撤収を渋り、駐屯を続ける部隊が少なくありませんでした。これらの経緯から、戦闘はコソボ各地で散発的に続きました。アメリカはこの状況を利用し、メディアを使ってセルビア軍が殺戮を繰り返していると訴えたのです。

 再び緊張が高まる状況下、フランスのランブイエで停戦交渉が始まります。しかし、コソボ独立に含みを持たせる内容が足かせとなり、セルビアが反対。合意には至りません。これが原因でNATOはアルバニア人虐殺を実施した経緯も含め、制裁措置としてセルビア本土の空爆を始めました。当初は3週間で終わるとされていた空爆ですが、結果的には78日間も続きます。その間、NATO軍は難民を乗せた列車や中国の在セルビア大使館などを誤爆。セルビア側も国民へ被害者意識の浸透を図り、抵抗を長引かせる原因を作りました。空爆はミロシェヴィッチなどが国際司法裁判所から戦犯起訴され、停戦合意するまで続いたのです。

コソボは独立へ歩を進めた

 ランブイエ合意に署名することは、セルビアにとって敗戦を意味しました。聖地であるコソボ平原にNATO軍駐留を許し、アルバニア人国家の建国へ含みを持つ内容を認めざるを得なかったのです。紛争終結後、ミロシェヴィッチはオランダ・ハーグへ移送され持病が悪化、2006年に獄死しました。領土消失の原因を作った独裁者は、セルビア人にとって黒歴史の象徴として心に刻まれています。

 他方コソボでは、暫定政府の大統領としてルゴヴァが就任。コソボのアルバニア人から、国父として親しまれる存在として認識が広まりました。ですが依然として、コソボ領内は混乱を極めました。2004年には、セルビア人の少年が銃殺されたことをきっかけにコソボ全土で民族対立が再燃します。NATO軍やコソボ警察により騒動は抑えられましたが、セルビア人に関連する文化財の多くが破壊されました。一連の騒動が主な経緯となり、コソボの独立に向けた動きは加速します。国連ではコソボ地位プロセスにより、独立へ向けた手続きを開始されます。関係各国へ独立の草案が提示され、国連安保理はこれを支持しました。しかし、ロシアが拒否権を行使し続け、国連における国家独立手続きの話は頓挫します。

コソボの姿勢が問われる今後

 セルビアやロシアが原因で正式に独立が認められない状況で、2008年2月17日にコソボ議会は独立を宣言。旧西側諸国を中心に、後追いする形で独立承認を受ける運びとなりました。この時を待ちわびたであろうルゴヴァは、2006年に肺ガンで亡くなっています。同時に、かつてルゴヴァと対立していたコソボ解放軍出身者がコソボ政界を率いていく流れが生まれました。

 ただ認識して頂きたいのは、コソボ解放軍出身の政治家が今でも急進的な軍事指導者ではない点です。過去の経緯からも、セルビアなどに対する軍事政策の必要性は否定できません。民族対立などが原因となって、コソボを認めない国家も数多くあります。ですが、アルバニア人国家として国際社会に一定の承認を得た今日。未承認とする国々へ、コソボは柔軟に歩み寄る姿勢も重要になってくるでしょう。寛容に民族意識を変えれば、コソボの様な独立国家と成りえる民族は増えるはずです。