第四次メルケル大連立政権にドイツ国民は不安視する

 ドイツ議会の第2勢力ドイツ社会民主党(SPD)が2018年3月4日、最大会派ドイツキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と再度連立政権を担う運びとなりました。両党とも何度も連立して政権を運営していますが、今回の組閣には選挙から5ヶ月もの長い期間を費やしました。メルケル連立政権の誕生までと、その歩みに沿って原因を探ります。

ドイツの議院内閣制度

ドイツの議会選挙

 記事を読む前に、ドイツの議会内閣制度に触れておきましょう。ドイツ議会は各州の代表が議員となる上院の連邦参議院(定数69)。総選挙の結果に基づいて議席が決まり、先議権を持つ下院の連邦議会(定数598 + 超過議席)。二院制で運用されています。連邦参議院は州議会から代表が派遣されるため、任期は特に定められていません。一方で連邦議会の任期は4年で、小選挙区比例代表併用制で議員が選出されます。定数598の半数299は小選挙区議席として割り振られ、各州の人口比から当選議席数を設定。残りの半数299は各州の比例票より議席数が党ごとに決まります。そして各党の小選挙区と比例の獲得議席を比較し、もし小選挙区が比例よりも議席数が多い場合。比例名簿の順位を参考に、追加で当選者が出ます。つまり、小選挙区+比例+小選挙区が比例より上回った分(超過議席という)が当選議席となり、超過議席が毎回発生するのが自然な仕組みとなっています。2017年度選挙後は111超過の709議席で連邦議会が運営されることになりました。

 ただし少数政党乱立防止の観点から、全比例票数中5%以上、または小選挙区で3議席以上。どちらかの要件を満たさなければ、議席が配分されない規定が設けられています。

ドイツの内閣制度

 続いて、ドイツの内閣制度についても知っておきましょう。国家元首の大統領は、連邦議会の選挙権を持つ40歳以上の全ドイツ国民が立候補できます。任期は5年、再選を含めれば最長10年で、政党間のバランスを考慮して国会議員から選ばれるのが慣例です。首相や国務大臣の任命、議会決議の署名、連邦議会の臨時招集など。アメリア大統領とは違い、議会や内閣の事案を承認することを主な職務としています。

 行政権の長を務める連邦首相が事実上、国の代表として責を担います。連邦議会の賛成過半数によって選出され、任期は連邦議会総選挙毎に迎えます。同時に次期首相候補を各党推薦して選挙に突入しますが、首相の再選回数規定は特にありません。現在の首相を務めるメルケルは2005年から長期政権を維持し、EU内でドイツの存在感を確固たるものにしました。しかし、欧州金融危機の対応に加え、シリア難民の受け入れ政策の推進により、内閣支持率が下落。主要メディアから「死に体」扱いされる状況に陥っています。

メルケル首相 誕生までの歩み

 そもそも元は物理学者だったメルケルが、なぜ連立政権の首相にまで任命される人物となったのでしょうか。メルケルは西ドイツ側で生まれましたが、間もなく牧師だった父親の転勤で引っ越し。東ドイツ国民として育ち、東側にあったライプツィヒ大学卒業後は東ベルリンの化学アカデミーへ。博士号取得後は分析化学の研究者となり、政治家とは無縁の人生を歩んでいました。しかし1987年にベルリンの壁が崩壊すると、籍を置くアカデミーの運営が不安定となり危機感を覚えます。東西統一の機運が高まる中、メルケルは決心して1989年に新政党「民主主義の出発」の結党メンバーとなりました。翌年の1990年には、西ドイツ側の与党CDUと合流。当時の西ドイツ首相だったコールに引き立てられ、メルケルは初当選議員ながら婦人青年大臣に任じられます。

 それ以後、メルケルはCDUの要職を担っていきました。1994年に発足した第五次コール政権では環境・自然保護・原子力安全大臣に。CDUが野党に転じた1998年には幹事長に。2000年には党首となります。コール政権で要職を担ってきた政治家が、ことごとく闇金問題に絡み与党から陥落したこと。その煽りでCDU保守派閥の力が急速に低下し、非主流派がメルケルを支持するなど。「コールのお嬢ちゃん」と揶揄されていたメルケルは、CDUの内部騒動によって党首となったのです。同時に引き立てた大物政治家が失脚する度、昇進する様から「妖力を持つ魔女」のイメージが定着しました。

 一方、CDUから政権交代したSPDと同盟90緑の党の連立政権に対する非難の声は年々大きくなりました。度重なる増税に、縮小されていく社会保障制度。引いては、旧東ドイツ地域の経済格差を埋められず、二次大戦後最大の失業者数を記録する雇用不安を招いたのです。時のシュレーダー連立政権は世論に押され、2005年に総選挙を1年前倒しで実施しますがCDUが辛勝しました。ただし、闇金のイメージを払拭できずにCDUも前回から議席を落としており、政権を担うには連立が必須でした。新興政党との交渉が難航した結果、前政権の中心政党だったSPDと連立する運びになったのです。加えて、協議の末シュレーダー前首相は政界引退を表明しました。こうしたドイツ二大政党の混乱も相まって、ドイツ連邦共和国史上最年少で東ドイツ出身かつ女性初の首相メルケルが誕生したのです。

環境政策を優先させたメルケル政権

 メルケル連立政権の発足間もない頃、諸外国の反応は良いものと言えませんでした。左右両党が連立しているため、政策方針が迷走すると捉えられていたのです。対して2006年にメルケルは、財政立て直し、労働市場政策、健康保険制度改革など。8つの最重要課題を掲げ、社会問題への対処を優先する方針を打ち出しました。この頃になると、予想に反して連立政権は安定していきます。発足後すぐにSPDが動いて取り組んだ中露外交策が功を奏し、国内外から評価されるようになったのです。2007年度には、EU評議会議長国として温室効果ガスの削減基準を提示。開催国として迎えたG7サミットでも、エネルギー政策議論を展開するなど。メルケル自身が大臣時代に経験した分野の政策に力を入れ始めます。しかし、2008年に発生したリーマンショック不況でドイツ経済は深刻なダメージを受けました。この対策でも環境補助金と称して、対象の新車購入を促して自動車産業を刺激するなど。環境主義的な政策で不況に対応しています。

 こうした実績を着実に積み重ね、2009年に迎えた選挙ではCDU・CSUが第一党となります。政策の調整に難があったSPDとの大連立は解消され、80~90年代に連立を組んでいた自由民主党(FDP)と交渉。コール政権失脚以来のCDU・CSU・FDPの右翼連立政権が成立し、メルケルも再任されました。一方、前政権下で推し進めてきたガス取引などのロシア外交や、中国向けの自動車輸出は伸び続けていました。皮肉なことに、連立を解消したSPDの提案から動き出した政策が上手くはまる格好となったのです。そのため、連立政党への配慮が目立つCDUに与党を任せて続けて良いのかという疑念。加えて、SPD与党時代の過剰な税制政策に不信感を持つドイツ国民は潜在的に増えていきました。そして既存二大政党への信頼は、日本の東日本大震災をキッカケに揺らぎ始めます。

歪みを生み出し大連立政権再誕へ

 東日本大震災で発生した福島第一原発事故により、メルケル連立政権はドイツ国内の原発稼働計画を凍結します。それまで温室効果ガスの削減につながることを理由に、メルケルは原発優遇政策を推し進めてきました。しかし東日本大震災以後、原発停止を訴える声が急速に広がったため、エネルギー政策の転換を迫られたのです。既に2010年、世論からは財政破綻したギリシャ経済へ多額の財政支援を行ったことを大きく非難されていました。政権支持率も40%代まで低下し、地方選挙ではCDUの候補が連敗するなど。連立政権の維持に黄色信号が灯り始めたのです。

 さらに2013年の連邦議会選挙を前に、欧州経済危機が追い打ちをかけました。ヨーロッパ各国の経済不安に対応するため。EUで欧州安定メカニズム(ESM)が創設されることになり、ドイツは多額の運営費負担を強いられたのです。ギリシャ財政出動の流れを汲む事態に、ドイツ国内では連立解消を求める声など。国民の反発感情は高まり、政権退陣論に拍車がかかりました。

 迎えた2013年連邦議会選挙。好調な経済成長策が評価され、CDUは東西統一以来最高の得票率となる41.5%を確保して第一党の座を守りました。しかし、連邦議会の議席過半数獲得はおろか、連立していたFDPが選挙規定により議席を全て失うなど。CDU・CSU・FDP連立政権が受けた審判は、厳しいものでした。ともあれ政権樹立のためには、FDPに変わる別の政党を探さなければいけません。現実的にも、第二次メルケル政権の批判に応えられる連立相手は1党しか考えられませんでした。選挙後3か月間の調整を経て、4年前に連立を解消したSPDと再び大連立政権を発足させる運びとなったのです。

政府の情報漏えいと難民の受け入れ

 メルケル政権下では二度目の左右大連立政権が誕生し、CDUは再びSPDの意向に配慮が必要となりました。長年SPDが求めていた、ドイツ国内の最低賃金均一化に関する法案を可決するなど。海外の財政出動に不満を募らせていた国民へ配慮する政策方針を進めていきます。また、SPDとの第一次連立政権を際に導入した諸制度により、ドイツは世界最大の経常黒字国となっていました。国内経済を回復させたメルケル政権ですが、結局はSPDの連立によって生み出された結果とも取られたのです。

 その後、政権を揺るがす大問題が立て続けに発生しました。2014年にアメリカの大手通信会社ベライゾンが、メルケル首相などの通話履歴をアメリカ国家安全保障局からの依頼で無断に提供していた疑惑が浮上。ドイツ政府は、2003年から続いたベライゾンとの情報セキュリティ契約を破棄する事態に。ネット情報の管理姿勢に対する批判は、契約当時与党だったSPDの責任も含めて連立政権へ降り注ぎました。

 翌2015年にはアラブの春を発端として難民となった人々が、ヨーロッパへ流入する欧州難民危機が社会問題に。メルケルは約110万人もの難民を受け入れる方針を打ち出し、中東や北アフリカからの難民をドイツへ迎えました。ですが、年末にケルンで発生した集団性暴行事件が明るみになると、国民からの批判は激しさを増します。犯行グループの多くが難民だったことに加え、公共放送も事件発生から5日間取り上げなかったのです。

 こうした背景からドイツ政界では反難民を掲げる新興政党、ドイツのための選択肢(AfD)が支持を広げます。2013年に結党されてすぐの連邦議会では議席を獲得できなかったものの、2014年の欧州議会では議席を獲得。その後の地方議会選挙でも着実に議席を伸ばしてきました。ナチスの反省から、ドイツでは極右思想は嫌煙される傾向にありました。ですが、世界的な右翼志向の波はドイツにも迫ってきたのです。

得票比率歴代最低となったCDU

 常に連立して政権を運営してきたとは言え、寛容な姿勢で社会問題に対応してきたメルケル政権。政府の情報漏えい問題に加え、難民の性暴行事件が発生するなど。第三次政権に突入してから、その対応策を問題視される機会が増えました。一方で極右主義の台頭により、ドイツ国内では新興のAfDだけでなく、FDPの連邦議会復帰を望む声が挙がります。2013年の連邦議会選挙で議席を失い、FDPはより右翼色が強い政党へと変化しつつありました。左翼政党でメルケル政権の連立政党であるSPDも右翼の流れを強く受ける様に、政党支持率が急落。最大会派で与党のCDUも、メルケル連立政権の失意が表れか。同じように政党時事率が下がりました。しかし、組織的基盤が固い二大政党が連邦議会選挙で議席を大きく落とすとは考えられない。ドイツ国民にとって、2017年の連邦議会選挙は連立政権を担う政党への失意を持って迎えることになったのです。

 蓋を開けてみれば、結果は予想通りとなりました。CDU・CSUとSPDは大きく議席を落とし、共に二次大戦以後最低の得票率を更新しながらも会派席次を維持。FDPは連邦議会の議席を取り戻し、極右のAfDも第三党に躍り出る議席を獲得します。前回と同じくCDUは単独で議席過半数を獲得できず、再び連立政党を探すこととなりました。初めは、連邦議会に復活したFDPと同盟90緑の党との連立を模索しますが交渉は難航。選挙から二か月後の11月には決裂します。結局、しこりが残るもののSPDとの大連立に舵を切る他、選択肢が無くなったのです。

 ただし、双方の支持率低下を背景にSPDはCDUに対して連立政権を担う条件を提示します。条件の中には、第二次連立政権からCDU元党首ジョイブレが務める財務大臣ポストの要求など。要職大臣にSPD党員を入閣されることが挙げられていました。選挙が終わり4ヶ月経過した時点での提示に、CDU側は条件を飲む他ありませんでした。こうして、SPD党首シュルツが連邦副首相と財務大臣を兼務する形で両党とも合意。よりSPDの意向が反映され易い、第四次メルケル大連立内閣がスタートしたのです。

連立政党内と極右の対立が課題に

 メルケル首相下でのCDU・CSUは、柔軟に社会課題へ応じる中道右派政党として長期政権を運営してきました。ただし、政権樹立毎に連立する政党の意向に沿って政策を譲歩した例は少なくありません。SPDの労働者優遇政策などは主たる例でしょう。さらにAfDの国政進出からも、極右化の流れは大きく注目されています。支持率低下に喘ぐ連立二大政党にとって、新興政党は国民の意思を乗せた脅威でもあるのです。左右の政党が連立を組んでいる訳ですし、方針が異なる政策分野は数多あるでしょう。とは言え、国民に共有された失望感の払拭や極右思想への配慮など。第四次メルケル連立政権は内輪と国民感情、双方の課題に向き合わないといけないのです。