アンゲラ・メルケルが若い頃に身に付けた沈黙術

 ドイツとして初の女性、かつ東ドイツ出身の首相として、長期政権を築いてきたアンゲラ・メルケル。その若い頃は、監視社会だった旧東ドイツ出身のためか、謎に包まれている面が多々あります。ただ、抑圧社会を生き抜くために自然と身に付いた性格は独特だ。と、ドイツ国内では言われています。メルケルの政治判断力を形成してきた要素を探ります。

父親の転勤により東ドイツへ

 ポーランド人の父親を持つプロテスタント牧師、ホルスト・カスナーは1954年に転勤を言い渡されました。東西冷戦体制が固定化し、貧しい東ドイツから豊かな西ドイツへ。人口大移動が社会問題となり始めていた頃。神は存在しないとする社会主義体制下の東ドイツでは、域内にある教会の維持が喫緊の課題でした。旧西ドイツ側のハンブルクで暮らしていたカスナーは対策要員として、時代と逆行するように東ドイツへ。妻へルリトン、生まれて間もない娘と共に向かいました。その娘こそ、後にドイツの首相にまで上り詰めるアンゲラ・メルケルです。父親カスナーの転勤劇は、アンゲラの人格形成と人生に影響を与えたことは言うまでもないでしょう。後にカスナーはプロテスタント教会内で力を付け、東ドイツ政界にも人脈を持ちます。国に忠誠しない人々を摘発する東ドイツの秘密警察(シュタージ)が、監視を緩める対象にもなりました。父親に守られながら若い頃のアンゲラは、一般東ドイツ国民よりも自由度の高い環境で育つのです。

アンゲラの幼少期

 東ドイツに転居したカスナー一家は、ベルリンから北に位置するテンプリンで生活していました。アンゲラの若い頃、特に幼少期を過ごしたテンプリンは実質彼女の故郷と言っても差し支えないでしょう。ただ、東ドイツの管理体制が鎖国的で、他人の逸話を下手に共有できなかったこと。アンゲラ自身が公にした若い頃の話が少ない点など。明かされている幼少時代の体験は多くありません。とは言え、彼女の性格に影響を与えたとされる経験は、いくつか知られています。

語学が堪能

 アンゲラの母へルリトンは、英語とラテン語の教師。家庭内で外国語に触れあう環境が若い頃から整っていて、アンゲラ自身も語学を得意としていました。当時、東ドイツの義務教育課程ではロシア語が必修科目とされており、アンゲラは優秀な成績を修めていました。加えて、自宅近くのソ連駐屯地のソ連兵とロシア語で日々やり取りして語学力と鍛えたと言われています。それもあってか、1970年には東ドイツの全国ロシア語弁論大会で優勝。モスクワで開催された世界大会へ進出しています。

 政界に入っても、持ち前の語学力は随所に活かされる場面が多々ありました。ロシアのプーチン大統領とは、先方が驚くほど流暢なロシア語で会談。アメリカのW.ブッシュ大統領にも、英語で意思疎通を図るなど。複数の外国語を不自由なく話せる強みは、メルケル外交の強さにつながっているのかも知れません。

慎重な性格

 今でも重要な判断に慎重な姿勢を取るメルケルですが、石橋を叩いて渡るのは若い頃からの性格みたいです。学生時代の水泳の授業で高さ3メートルの台からプールへ飛び込むよう、指導されたとき。アンゲラは怯えて立ちすくみ、授業が終わる頃合いになるまで45分間も飛び込み台上で立っていたと言います。これは数少ない若い頃のアンゲラ少女を象徴する話で、自らの性格を説明する逸話として気に入っている様です。

 情報統制が厳しかった東ドイツ出身の謎多き女メルケル。色眼鏡をかけて、姿が掴めないと見ているドイツ国民は少なくありません。その認識に拍車をかけているのは、表に出さない臆病なまでの思慮深さ。息を潜め、時を待つメルケル自身の性格が、彼女をミステリアスな人物に仕立てているのでしょう。

運動と動物が苦手

 アンゲラは運動能力の発育が遅く、歩き始めたのは3歳になってから。生来の勉強好きだった若い頃のアンゲラですが、スポーツの成績については良くなかったみたいです。前出した飛び込み台の話からも、運動が苦手だったことは伺えるでしょう。2014年には、冬期休暇中にクロスカントリーで骨盤を折るなど。年老いた今日でも、スポーツで災難に見舞われています。

 加えて、幼い時の最も古い記憶に「馬に対する恐怖」と挙げる程、動物に触れることを苦手としています。環境・自然保護・原子力安全大臣として勤めていた頃、膝を噛まれた犬に対しては相当な恐怖心を懐いている様です。これに着目され、外交では攻め込まれた場面もありました。首相就任直後のメルケルがロシアへ来訪した際、プーチン大統領は贈り物として犬のぬいぐるみを贈ったのです。翌年には、ロシアが反政府組織として認識している団体と面会した懲罰行為として。プーチンの愛犬をメルケルにすり寄らせ、会談で醜態を晒すドイツ首相の姿を世界に発信したのです。

情報統制国家で得た生きる知恵

 プラハの春が巻き起こった1968年、アンゲラは旅行先のチェコで社会主義体制のジレンマを体験します。革命主導者であるドプチェクを支持する少年が、アンゲラの目の前で前大統領ノヴォトニーの切手を破きました。続いて、高らかにドプチェクの英雄視論を語り始めたのです。しかし旅行に戻った後、学校ではプラハの春について教師達から知らされることは一切ありませんでした。この一件から、若い頃のアンゲラは下手に社会主義圏内の混乱について語らないこと。沈黙を守って生活していく大切さを学びました。元来の臆病な性格も相まって、メルケルは首相としての本心を伝えることに積極的ではありまあせん。これは、社会主義国民として生きていく上で、嫌が負うにも身につけざるを得なかった対処法なのでしょう。

 さらに大学卒業後には、職場にいる同僚の動向を伝える様にシュタージから誘いを受けています。対してメルケルは、自身を「口が軽い女」なので機密情報を管理するには不適格だと説明。シュタージのリクルーターに驚かれながら追い払ったと言います。東ドイツは、一般人がシュタージの情報提供者として国民を監視する世の中でした。仮にシュタージからの誘いを断れば、国家反逆者のレッテルを張られ逮捕されかねないのが普通だったのです。メルケルが密告者の誘いを跳ねのけられたのは、「赤い牧師」の異名を持つ父カスナーの存在。加えて、若い学生の頃に学んだ下手に真実を語らないことに徹したからでしょう。多感な若い頃に経験した社会主義体験が、本音を言わないメルケルの信条を形成していったのです。

離婚してもアンゲラ・メルケルを名乗る

 伝統あるカールマルクス大学(現:ライプツィヒ大学)に進学したアンゲラは、物理学を専攻します。理系科目が得意だったことも理由ですが、社会主義概念が介入しにくい学問を選びたかったのが最大の要因だった様です。大学2年生の頃には、友人達とロシア旅行へ向かいました。その友人の一人に、最初の結婚相手となるウルリッヒ・メルケルがいました。ただし恋愛結婚ではなく、社会制度を利用するための契約をしたと見てよいかもしれません。当時の東ドイツの単身若年層は、一般的に狭いアパートで集団生活を余儀なくされていました。比べて結婚すれば、広めの住居が優先的に提供されるなど。優遇される点が多くあったのです。こうして、アンゲラ・メルケルと名を変えましたが、結婚は長続きせず4年で破局します。合意的要素の強い結婚だった訳ですし、自然な流れだったのかもしれません。

 生涯の伴侶として決めたのは、量子科学の世界的権威であるヨアヒム・ザウアー博士でした。ただ入籍したのは1998年の年末で、メルケルが既に政党の幹事長を務めていた頃。ザウアーには前妻と二人の息子がいますが、メルケルとの関係が噂されたタイミングで破局しています。俗に言う、略奪愛をメルケルはヤッてのけた疑いがあるのです。ザウアー自身、表立ってメディアに姿を現すことも少なく、メルケルも沈黙を保って語りません。若い頃に半ば形式的に結婚したアンゲラにとって、恋愛結婚は一つの憧れだったのでしょう。しかし、いざ恋愛すると不倫の疑いをかけられる行動をとった訳です。既に政党幹部を務めている身として、スキャンダラスな話は広めたくなかったのが本心でしょう。

 アンゲラは一度目の結婚以来、メルケル姓を名乗り続けています。これは、ドイツ社会では一般的なことですが、アンゲラ・メルケルの名で世に知れ渡っていること。略奪愛のイメージを植え付けないことなどが、理由として挙げられるのです。

ベルリンの壁崩壊が与えた衝撃

 メルケルは親戚の結婚式参加のため1986年、西ドイツのハンブルクへの旅行を東ドイツ政府から許可されました。ベルリンの壁で市井の人々の国外逃亡を防ぐなど。前出した通り、東ドイツは人々の自由を制限する社会を作り上げていました。メルケルの国外旅行を許されたのは、父の威光を利用し、沈黙する策を徹した結果と言えるかもしれません。いづれにしてもメルケルは旅行を通じて、西ドイツ側の進んだ技術、自由な社会に触れました。仮に東ドイツで自由選挙が実施されるなら、東ドイツ国民は西側の体制を望む。ソ連でペレストロイカが始まったことも鑑み、東ドイツ体制は持たないと確信したのです。そして予感は的中しました。

 西ドイツの旅行を終えてから3年後、ベルリンの壁が崩壊したのです。壁が壊されているとき、メルケルは習慣としているサウナに友人と入っていました。当然、壁が崩壊した情報は耳に入っていましたが、すぐには駆けつけなかったみたいです。高揚感に包まれる街の空気を感じつつも、自らの習慣を優先する。若い頃から形成されてきたメルケルの性格が、非日常時でも表れている様に感じます。サウナを終え、検問所や西ベルリンの繁華街クーダムで持てなしを受けるなど。壁崩壊当日は、異様な熱気が立っていたと言います。その後、東西ドイツ統一の機運が高まる中、メルケルは目覚めたかの様に政治活動へ身を投じて行きます。

 東ドイツの教会組織が中心となって立ち上がった新政党「民主主義の出発」の結党メンバーとして参加したのです。それまで、国の方針で政党の下部組織に籍を置いていた過去を持つ以外、政治と接点が皆無だったメルケル。西ドイツ旅行やベルリンの壁崩壊などを経験し、社会の変容を感じていたのは間違いありません。ですが研究員のメルケルは、なぜ縁のない政界へ入ったのか。当時から最大の謎とされています。ドイツ首相となっても、その理由が多く語られることは無く。彼女が若い頃に培った沈黙話術は、政策発言以外にも活かされている代表例となっているのです。

沈黙する知略家

 国を背負っている国家元首の生い立ちは、外交的な観点から不必要に公開されるべきではないでしょう。だとしても、メルケルの本心を掴めないと感じている国民は多くいます。110万人規模の難民受け入れを表明していからの支持率低下は、物を語らない首相への苛立ちの表れかもしれません。ただ、若い頃のアンゲラ少女が社会主義体制下で自らの生存権を獲得するためには、建前の使い方。いざという時のみ、本心を見せるしたたかさを身に付ける必要があったのです。故にメルケルは、古い体質の政治家が躊躇する融和的手法でドイツをEU中心国に押し上げました。生来の気弱な性格が成した、黙り語る政治の成果と言えるのです。