ポーランド独立回復123年の歩み

 ポーランドは2018年、独立回復から100年の節目を迎えました。EU内でも10年代に入ってから発言力は増しており、東欧新興国の優として注目されています。こうした勢いを支えるのは、かつて大国に分割され、不遇な時代を経験した歴史に起因するかもしれません。ロシアサッカーW杯日本代表の対戦相手、ポーランドの独立回復史に注目してみましょう。

ポーランド建国から没落まで

 ポーランドが建国されたのは963年、ポラン族の族長だったミェシェコ1世が周囲の部族と共に神聖ローマ帝国と戦い。966年、キリスト教の洗礼を受けたことに始まります。その頃、大国として隆盛した神聖ローマ帝国は、非キリスト教民族を制圧の末、領土を拡大していました。各部族が独自の自然宗教を崇拝していた当時のポーランド域内には、国家という組織が存在せず。地域の安定を保つため、キリスト教国家の樹立が急がれたのです。

 ミェシェコ1世の息子、ボレスワフ1世が死後。神聖ローマ帝国より正式に国王と認められると、ポーランドは独立国家としての地位を確立しました。しかし急な領土拡大へ走り、領土の消失と回復を繰り返す様相に。自然宗教の崇拝を続けた農民達が各地で反乱を散発させ、神聖ローマ帝国が鎮圧に入る事態を招きます。その後、クラクフ公国を中心とする連邦体制が敷かれますが、国内の諸侯対立を招く主要因となりました。13世紀のモンゴル軍侵攻で国力は弱体化し、ポーランドは衰退していきます。

 一方で、神聖ローマ帝国が荒廃したポーランドへ植民を開始したこと。重税に苦しむ神聖ローマ帝国の貧民や、迫害を受けたユダヤ人がポーランド領内に定住したことなど。ポーランドは、モンゴル軍侵攻に端を発して。神聖ローマ帝国と癒着関係を築き、国力を回復させていきます。その後、王朝の後継者問題が起こり。1386年には隣国リトアニアと婚姻関係を結んで、ヤギェウォ朝を発足させました。以来リトアニアとの同盟体制が確立し、1569年から連邦国家体制に移行。18世紀のポーランド分割まで、命運を共にしました。

 リトアニアとの同盟により黄金期を築いたポーランドですが、1572年にヤギェウォ朝の後継者が断絶します。そのため、先駆的民主制度と言われる「国王自由選挙」制度が導入されました。関係国の諸侯から国王を選ぶ選挙制度でしたが、他国の利権に絡む候補の増加、軍事的圧力による選挙干渉など。国王自由選挙は、ポーランド王政の権威を失墜させる原因を作ったのです。ついには、フランス派閥と神聖ローマ帝国派閥でポーランド継承戦争が開戦された末。ポーランドはロシア帝国下の保護国となりました。

3度に及ぶポーランド分割で国家消滅

 国王自由選挙が発端となり。ポーランドは、ロシア、神聖ローマ帝国を構成していたプロイセン、オーストリアの緩衝国と化しました。国家瓦解の危機的状況に、ポーランドの地方貴族は緩衝国と関係を重視するようになります。対してポーランド王政は、権力回復を目指して足掻きました。

 ロシアからの圧力が強まった1768年。ポーランド独立を守ろうとする諸侯が、バール連盟を結成してロシアと戦います。しかし、ポーランド王国最後の国王、スタニスワフ2世アウグストはロシアの後ろ盾で選ばれた身のため。ロシア軍に味方する動きを見せ、バール連盟は敗北。反乱の参加者は、一族揃ってシベリア送りの刑に処されました。ポーランド史上初の独立回復運動は失敗し、1772年に第一次ポーランド分割がロシア、プロイセン、オーストリアの3ヵ国間で実行されます。

 特にプロイセンへ編入された、ヴィスワ河口地域やヴァルミア一帯など。湾岸のポメラニア地方を失い、ポーランドの国家財政は独立を維持できない程に悪化します。対してロシアとの癒着関係を確立したポーランド諸侯は、私的資産を蓄えて親ロシア派は増加しました。国家財政の危機に、バール連盟で難を逃れた諸侯と中央王政の議員は4年会議を実施。ヨーロッパ初の憲法「5月3日憲法」の制定にこぎ着けます。安定した独立回復を目指す上で、多数決による法案決議、諸侯と市民の政治的平等、常設軍の編制など。革新的だった法制度は、19世紀に制定される各国憲法へ影響を与えました。

 他方、親ロシア派の諸侯達は、ロシア併合後の身分保証を念頭にタルゴヴィツァ連盟を結成。中央王政をロシア軍に屈服させ上、国会議員の一部を買収し、1793年の第二次ポーランド分割を議会で承認させます。農民たちの市民蜂起もことごとく弾圧され、1795年には第三次ポーランド分割が強行されました。これにより、中央王政が目指した権威回復は打ち砕かれ、ポーランドは123年もの国家消滅期間に突入するのです。

分散する独立回復運動

 独立国家体制が崩壊してからも、ポーランドの領土回復運動は断続的に続けられました。3ヵ国による領土分割が終わった頃、フランスではナポレオンが台頭し始め。旧来の絶対王政を脅かす存在として、周辺国は緊張感を高めていました。分割3ヵ国がフランスと対立する状況に。ポーランド貴族は独立回復の望みを託し、フランスに味方して戦います。

 オーストリア、プロイセンなどの神聖ローマ帝国構成国はフランスに続けて連敗し、1806年に神聖ローマ帝国は解体されました。そして翌年、ティルジットの和約でポーランドはワルシャワ公国として。フランス隷属下であるものの、一時的に独立を回復します。ただし、ナポレオン帝政が科した独立回復への代償は凄惨なものでした。ナポレオン戦争が開戦すると、ポーランド兵は先兵として各地の民衆反乱を抑える任務を押し付けられます。遠方は中米カリブ海のハイチにまで派兵され、マラリアなどに感染して亡くなったポーランド人も多く。ナポレオン帝政の衰退を決定つけたロシア遠征でも、多数の犠牲者を出しました。しかも、ナポレオンの失脚後に敷かれたウィーン体制によって。旧ポーランド領土は分割3ヵ国、それぞれの傀儡国家を樹立する形で存続する決定が下されたのです。

 ただし、タルゴヴィツァ連盟の流れを汲むポーランド諸侯はフランス軍と共闘していません。端からロシアの傀儡国家、ポーランド立憲王国として独立回復を狙ったのです。ウィーン体制における分割でも、ポーランド立憲王国が旧ワルシャワ公国を引き継ぐ体裁が取られました。当然、ポーランドの多くは処遇に反発し、1830年の11月蜂起や1848年革命に乗じた民衆蜂起など。フランスの民衆勢力の反乱とタイミングを合わせて蜂起しました。ですが、数で勝るロシア軍に都度鎮圧され、ポーランド立憲王国は1832年に解体されます。ポーランド人のロシア軍徴兵といった、ロシア帝政への一体化も強行されました。

 兵役まで制度化されたら、ポーランド独立回復の望みは潰える。ポーランドの地下組織は1863年、1月蜂起を起こしてポーランド全土に決起を呼びかけました。ですが、ミハイル・ムラヴィヨフ将軍率いるロシア軍は、反乱首謀者を絞首刑として処刑しただけでなく。ポーランド諸侯の土地や資産を強奪した上、推測最大8万人ものポーランド人をシベリア送りにするなど。無慈悲な鎮圧策で反乱を鎮静化させました。その後、ロシアから行政官が多数派遣され、公共機関でのポーランド語使用が禁止されるなど。なお一層、ポーランド人を縛り付ける様相を呈したのです。

 オーストリア保護下のクラクフ共和国、プロイセン保護下のポズナン大公国は、それ以前に消滅しています。ワルシャワの11月蜂起が失敗し、フランスで再起を伺っていたポーランド人達は1846年。旧ポーランド領内全土での蜂起を画策しますが、計画が漏れて逮捕者が続出しました。やむなく、クラクフ内で先行して決起するも鎮圧され。オーストリア帝国は、構成国家としてクラクフ編入を強行しました。ポズナンも1848年革命に乗じて蜂起しますが制圧され、プロイセンのポーゼン州が置かれます。こうして、分割3ヵ国で展開されたポーランドの独立回復機運は、1863年の1月蜂起をもって潰えたのです。

独立回復の兆し

 20世紀になると、オーストリアは戦争での敗戦重なりオーストリア=ハンガリー帝国に。プロイセンは、旧神聖ローマ帝国を構成していた国家を率いるドイツ帝国として。内情は異なりますが、領土拡大と産業革命による近代国家化が促進されていました。一方でロシアは社会主義勢力の勃興に苦悩し、急速に国力を落としていました。

 諸侯同士の争いから近代国家の争いへ。帝国主義に移行する時勢の変化は、ポーランドに独立回復の機会を生み出します。産業面ではロシア領内の都市ウッチで、繊維産業が発展。ロシアとの関税撤廃や鉄道開通により、ロシア本国より産業革命が進行します。しかし文化面では、分割地域ごとにロシア化やドイツ化が進行し、ポーランド人の不満は募っていきました。地盤産業の発展と文化的抑圧は、独立回復運動の機運を高めると同時に。ポーランド社会党やポーランド国民民主党を誕生させ、独立回復後の基盤を築いたのです。

 日露戦争が開戦すると、ロシアはポーランドを含む従属国家から徴兵を強要して満州に兵を送りました。この時、社会党代表ピウスツキと国民民主党代表ドモフスキが日本へ向かい。日本軍のポーランド人部隊設立、捕虜となったポーランド人兵士の配慮を嘆願しています。日本政府は願い出を受け止め、松山の捕虜施設へポーランド人を厚遇で収容する取り決めをしました。日露戦争のロシア敗戦が濃くなり、日本と協力関係を築いたポーランド人の政党員は1905年革命を起こします。反乱は次第に旧ポーランド領内全土へ広がり、独立回復に向けたポーランド人同士の結託を強固としました。さらに、革命によってポーランド人全体の生活水準が上がり、独立回復への意識を根付かせることになります。

ポーランド第二共和政が成立

 1905年革命によりポーランド人の独立熱が高まりますが、今後は独立後の政府体制でポーランドの政党同士が対立。第一次世界大戦後には、5つもの組織がポーランド政府を名乗る事態となります。特に2大勢力の独立回復における対立は深まりました。

 ポーランド国民民主党筆頭のドモフスキは、親ロシア思想に基づいた旧ポーランド王国領全土による独立回復を狙っていました。ただドモフスキは、旧ポーランド王国領内に住むウクライナ人、リトアニア人、ベラルーシ人などへ。ポーランド人として同化することを強要し、各民族の反感を買いました。さらに、一次大戦で帝政ロシアが崩壊し、国民民主党幹部はフランスのローザンヌへ逃げ延びます。そこでポーランド国民委員会を設立し、パリへ拠点を移して各国から支持される様に。フランス大統領の指示に従い、軍を編制するなど。国際社会から正式なポーランド政府として周知されるよう行動します。

 対して、ポーランド社会党右派を率いるピウスツキは、ポーランド領内に住む人々による統治政府の設立を目標としていました。対露方針を打ち出していたピウスツキは、一次大戦の開戦前に武装闘争同盟を結成してオーストリアに味方します。オーストリア軍とドイツ軍がポーランド領内へ侵攻すると、国民防衛委員会を発足させ。オーストリア、ドイツの両国皇帝から独立回復の詔を受けます。その後、苦戦するドイツの新兵徴募には応じず、アメリカを動かし、独立回復へ向けた地固めに専念しました。国民防衛委員会の従属しない姿勢にドイツは反発し、ピウスツキはドイツ政府に逮捕されます。

 ほどなく、ドイツの意向を反映する摂政会議が設立され、ポーランド社会党員は圧力を受けました。摂政会議は国民民主党による独立回復を望み、後ろ盾となって政権を樹立させます。しかし、ドイツが舵取りを担う摂政会議との不和は明らかで、国民民主党政権は短命に終わります。これに乗じて、社会党員達はルブリンで臨時政府を設立。国民防衛委員会の関係者を中心に組閣され、政治的諸権利を保障しました。

 一次大戦が終結し、ドイツの敗戦によってピウスツキは釈放されます。急ぎワルシャワへ戻ったピウスツキは、国会召集まで臨時国家主席となり、軍隊指揮権を握りました。そして1918年11月11日、ポーランドは123年ぶりに独立回復を果たしたのです。

苦難の歴史がポーランドを形作った

 独立回復後もポーランドでは、国民民主党などが設立した政府と名乗る組織の統一など。難題が突きつけられた挙句、統一後も少数政党の乱立をはじめ。ピウスツキとドモフスキの対立は続き、ナチスドイツによって国土が掌握されるまで。政界は混乱を収められずにいたそうです。しかし、他民族によるポーランド独立回復を目標としたピウスツキの思想は、国民から広く支持を集め。ピウスツキ自身のカリスマ性も相まって、ポーランド独立回復の象徴として。今でも慕われているのです。

 近年のポーランドは、治安が良く、教育水準が高い国家として国際的に認知されています。その国民性の根幹を育んでいるのは、分割時代の闘争史を国民が共有している点も挙げられるでしょう。