アルバニア人とコソボ国民の象徴 ~スカンデルベグの双頭の鷲~

 サッカーW杯ロシア大会、セルビア対スイス戦でのゴールパフォーマンスが物議を呼んでいます。コソボ出身のアルバニア人選手が、セルビア国民が激高しかねない。双頭の鷲を表すパフォーマンスを見せつけたのです。アルバニア人移民の彼らが表現した双頭の鷲は、何を意味するのか。英雄スカンデルベグに触れつつ、その理由を探ります。

政治的意図を含むパフォーマンス

 事のあらましを整理しましょう。問題が起こったのは、サッカーロシアW杯グループEのセルビア対スイス戦。後半7分にスイス代表、コソボにルーツを持つアルバニア人のグラニット・ジャカがゴールを決めました。その後、ジャカは胸元に手をクロスさせ、双頭の鷲を表すパフォーマンスを行ったのです。後半45分にも同じくスイス代表、コソボ出身のジェルダン・シャキリがゴール。同じように双頭の鷲を表すパフォーマンスを見せました。試合はスイスがセルビアに逆転勝利したものの。当事国の国民に加え、その意味を知る世界中の人々へ衝撃を与えました。

 さらに、スイス代表主将のリヒトシュタイナーもパフォーマンスへ同調する仕草に。観戦中のセルビア人サポーターが刺激され、政治的意見を発信する横断幕をスタジアムへ投げ入れるなど。荒れた試合様相となり、スイス国内ではセルビア人移民とアルバニア人移民との小競り合いが試合後多発ました。セルビア代表の監督も、試合判定を不服とする旨を旧ユーゴ戦犯裁判になぞらえてSNSに投稿。非難を浴びるなど、試合の余波は瞬く間に広がっていきました。

 事態の悪化に、FIFAは社会的な不安を煽った責任として。ジャカとシャキリには、7600ユーロ(約97万円)。リヒトシュタイナーには3700ユーロ(約47万円)。セルビアサッカー協会会長とセルビア代表の監督には3800ユーロ(約49万円)の罰金をそれぞれ科しました。特に事の発端を作ったジャカとシャキリは本来、試合出場停止となってもおかしくない。主権国家の人々を挑発する行動を見せたのです。それでも罰金刑で済んだのは、アルバニア人とセルビア人。双方に対して、一定の配慮をFIFAが意識したためと言えるでしょう。

 アルバニア人とセルビア人の対立は「コソボ独立に国際社会の味方がなぜ割れるのか?」を読んで頂けるとご理解できると思います。長年こじれてきた民族対立は根深く、因縁を持つ。アルバニア人とセルビア人は多くいます。コソボ紛争で係争地となった、コソボ共和国に在住する国民の90%はアルバニア人です。未だ独立を認めていないセルビア、開催国ロシアへ。アルバニア人としての双頭の鷲を表現したのは、自然かつ危惧される行為なのです。

アルバニア民族の英雄スカンデルベグ

 そして、ジャカとシャキリが手で表現していた双頭の鷲は、アルバニア人団結の意味が込められています。15世紀にアルバニア反乱軍を先導した英雄、スカンデルベグの紋章「双頭の鷲」が民族の象徴として。現代でも広く定着しているのです。「コソボ独立を承認国と非承認国の立場から見る」の記事中、イタリア/アルバニアの項目で触れているように。コソボ国民はNATOが制定した国旗よりも、双頭の鷲がデザインされているアルバニア国旗を好んでいます。19世紀の大アルバニア主義によって、双頭の鷲が共有された経緯もありますが。それ以前に、オスマン帝国から一時だけ独立状態を勝ち取った指導者。スカンデルベグには、アルバニア国民も、コソボ国民も、強い愛着心を懐いているのです。

 アルバニア人領主の家系だったスカンデルベグは1415年、10歳の頃にトルコ人裁判官の人質として。オスマン帝国の首都として機能していたエディルネへ送られ、イスラム教徒として勉学に励みます。セルビアを中心としたバルカン諸国軍が、1389年のコソボの戦いでオスマン帝国に敗戦したため。15世紀初頭のバルカン半島諸民族の領主は、オスマン帝国へ従属を強いられていました。そのため、各民族の領主が忠誠心の証として、子息をオスマン帝国へ送ることは珍しくなかったのです。

 アルバニア人を含めた諸民族の不満は、やがて反乱という形で現れます。スカンデルベグもアルバニア民族の再興を胸に懐きつつ。オスマン帝国軍人として頭角を現し、軍隊長を務めるベイ(君候)となりました。1441年なると、ルーマニア出身のハンガリー貴族、フニャディ・ヤノーシュ率いるキリスト教連合軍が反乱を始めます。苦戦したオスマン軍は、1443年にスカンデルベグ率いる部隊を派遣しました。ですが、スカンデルベグは密かにヤノーシュと交渉を行い。部下である300人のアルバニア人が、連合軍側へ寝返る手筈を整えていたのです。ニースの戦いでオスマン軍が敗れると、スカンデルベグ軍はアルバニア諸侯とレージョ同盟を結成。双頭の鷲の紋章を制定し、オスマン帝国へ反抗を開始します。

 連合軍はその後、1444年のヴァルワの戦い、1448年のコソボの戦いで敗北。戦場となったコソボ平原をはじめ、オスマン帝国の侵略を許すことになりました。対して、スカンデルベグの鷲を掲げるレージョ同盟は、少数部隊ながらも度重なる戦闘で連勝。スカンデルベグはアルバニア民族の英雄となりました。ですが長年にわたる戦乱で、次第に士気が下がるアルバニア諸侯も多く。1450年の第一次クルエ包囲戦に勝利した後、レージョ同盟は自然崩壊を始めます。戦闘継続の資金稼ぎにも苦しみ、スカンデルベグは一度戦火を交えたヴェネツィア共和国ほか。商業都市国家との関係構築に苦心します。

 オスマン帝国とヴェネツィアが十五年戦争を始めると。オスマン帝国はレージョ同盟に対し和平交渉を提案しますが、スカンデルベグは応じなかったため。再びオスマン軍がアルバニア侵攻を開始します。瓦解しつつあったレージョ同盟ですが、英雄スカンデルベグの威光によってアルバニア諸侯は団結。快勝を続けますが、スカンデルベグがマラリアを患い。1468年1月に亡くなります。絶対的英雄を失ったアルバニア諸侯は混乱し、双頭の鷲の下で結束された体制は瓦解しました。軍事的統率もままならなく、レージョ同盟残存軍は1478年、オスマン帝国に降伏。十五年戦争が終結し、アルバニア人は抑圧される時代を迎えるのです。

アルバニア民族運動の象徴

 バルカン半島占領が完了し、アルバニア民族のイスラム教徒化を急速に進めるなど。オスマン帝国は、思想的統合を強制しました。ですが、アルバニア民族内では、英雄スカンデルベグを表す。赤地に双頭の鷲の紋章が、代々共有されていきます。特に高山地帯の現コソボ領内に移住を強いられたアルバニア人達は、湾岸や平地の住まう人々よりも弾圧されず。アルバニア人としての民族意識を維持することができました。

 19世紀にオスマン帝国が弱体化すると。「コソボ独立に国際社会の味方がなぜ割れるのか?」で挙げたように。現コソボ領内のプリズレンにて。アルバニア独立を目指す民族運動、プリズレン同盟が発足しました。この頃になると、オスマン帝国中枢にもアルバニアルーツの政治家が幅を利かせており。プリズレン同盟結成当時は、オスマン帝国も財政緊縮策として独立を支持する立場でした。しかし、露土戦争で敗北したオスマン帝国が、アルバニア人居住地区を全て統治する国力を失っていたこと。長年の民族分断で、言語や習慣が全く統一されていなかったことなどが災いとなり。プリズレン同盟は決裂し、オスマン帝国政府と対立。再びアルバニア民族間で結成されたペヤ同盟も、オスマン帝国が鎮圧にかかる事態となりました。

 19世紀末のアルバニア民族は、自らのアイデンティティを確立するのに多くの課題に直面していました。そんな混迷する状況下でも、スカンデルベグの双頭の鷲を用いた国旗は共有されたのです。アルバニア国家の独立宣言は、1912年12月まで待たなければなりません。周辺国がバルカン戦争で対立している隙に、現コソボ地域を含めて国家機能を整備しようと動いたのです。しかし列強間の勢力関係により、コソボ地域がセルビア領へ割譲されるなど。設立間もないアルバニア政府が、満足できない国境線を敷かれたのです。以来、第二次大戦による領土変化はあれど、アルバニア本国とコソボ国家の統一は実現していません。

コソボへの強制移住が生んだ対立か?

 アルバニア独立運動の中心地は、コソボにあるプリズレンでした。オスマン帝国によりアルバニア人が、険しい山に囲まれた高山地帯へ強制移住させられたことで。民族意識が守られ、醸成された末にアルバニア民族国家が建国された。とも、取れます。ジャカやシャキリの言動を考えてもそうですが。現在でもアルバニア本国より、コソボ出身者の方が強い民族意識を懐いていると言えるでしょう。15世紀にアルバニア民族を導いた英雄が掲げた。スカンデルベグの双頭の鷲は、コソボ紛争を経験したアルバニア人にとって。民族共通の象徴なのです。他方セルビアからすれば、異様に民族意識が高い他民族に聖地コソボ平原が侵略されている。あってはならない事態だと捉えるセルビア人も多くいます。

 さらに、90年代のユーゴ紛争によって。セルビア人もアルバニア人も西ヨーロッパへ逃れたため。移住先で小競り合いが起きる事態は、常に懸念されてきました。ロシアW杯のセルビア対スイス戦は、今後も民族間の政治問題が国際スポーツの舞台でも起きかねない一例を示す。代表的な試合となってしまったのです。