鎧騎兵・装甲列車・熊まで…ポーランド史に残る軍事シンボル

 16世紀から17世紀にかけ、「ポーランド独立回復123年の歩み」で触れたように。東欧の大国として、ポーランドは栄華を築いていました。その繁栄を支えたのは、重い鎧をまとった槍騎兵の存在が大きいと言われています。また、近代に入っても装甲列車、軍籍を持つ熊など。ポーランド軍の歴史には、際立つ象徴が数多く見られます。

鎧をまとう騎兵 フサリア

17世紀初頭のフサリア

 ポーランドは西欧諸国よりも後発の国家でしたが、戦災で難民となった人々を受け入れる寛容さ。加えて、隣国リトアニアと共闘して敵対したドイツ騎士団を撃破する武力をもって。リトアニアと連邦国家体制を樹立する1569年頃には、広大な領土を持つ大国となります。一方、ポーランド南部のハンガリー王国では、敵国であるオスマン帝国の騎馬兵を模倣した。軽騎兵(ユサール)が育成され、進撃するオスマン帝国軍と対峙していました。

 ヤギェヴォ朝が断絶し、国王自由選挙制によりポーランド国王となったハンガリー貴族。ステファン・バートリーは、祖国で脅威とされてきたオスマン帝国からポーランドを守るため。ユサールの組織化に注力します。ただ当時のポーランドでは、鎧甲冑を身に着けて戦う戦法が定着していたためか。兵士たちは鎧を着用し、華麗な絹羽織や動物の毛皮を重ね着するようになった末。衝撃重騎兵(フサリア)という新たな騎兵職を生み出し、ポーランド最盛期の主戦力として活躍します。

 17世紀初頭に入ると、ポーランドはスウェーデンやロシアとの戦争に突入しました。スウェーデンとは王位継承を巡って、ロシアには領土拡大を狙って戦いに臨み。鎧をまとったフサリアの名を欧州中に知らしめることになります。36,000人以上のスウェーデン兵を相手としたキルヒホムの戦いでは、2,600騎のフサリアを主戦力に大群を撃退。その後、スウェーデンとロシアの連合軍と衝突したクルシノの戦いでも。35,000人規模の兵士を5,000騎のフサリアをもって撃破しています。以来、煌びやかな鎧と羽織を身に付けた重騎兵は、ポーランド繁栄の象徴として。周辺国や部族は恐れるようになります。

 スウェーデンとの争いは長く続き。ポーランドの衰退が始まりますが、オスマン帝国のヨーロッパ遠征をキッカケに。フサリアが再び目覚ましい活躍を見せ、ポーランドの威厳を復権させます。17世紀前半に欧州全土が戦場となった三十年戦争の影響による、キリスト国家が弱体化を好機として。オスマン帝国は1683年、第2次ウィーン包囲による遠征を実施します。ヨーロッパは再びイスラム世界の脅威と対峙することになりました。この侵攻にポーランド軍は殿を務め、鎧をまとったフサリア軍団はオスマン帝国軍15万人を追い払いました。そして、鎧を際立たせ先陣を切ったポーランド国王。ヤン3世は、キリスト世界の救世主となったのです。

分割期に活躍した槍騎兵 ウーラン

18世紀末のウーラン

 ヤン3世がオスマン帝国を撃破し、絹羽織と鎧を身にまとうフサリアの姿は再び欧州で注目を集めます。しかし、17世紀に入り続いたヨーロッパの戦乱は収まる様子を見せず。ポーランド貴族の内部対立も相まって、フサリアは次第に鎧を身に着けない騎兵集団。ウーランへの再編成が進み、ポーランド分割後は各地で転戦を繰り返します。

 18世紀に入ると周辺国は兵装の軽量化、火器の強化を進め。機動性を重視した軍備が欧州圏の標準となります。ポーランドもフサリアを縮小を迫られます。これは、火器の性能向上が主要因ではなく。「ポーランド独立回復123年の歩み」でも記述から分かる様に、ポーランド貴族が長引く戦乱によって衰弱したため。鎧を装備するフサリアを常備軍として雇えなくなった。資金的な要因が絡み合っていたのです。

 コスト高で維持できないフサリア軍団は、1770年には軍制改革により解散することになります。代わりに、維持費が安く、軽装備で機動戦術に富むウーランがポーランド騎馬隊の主戦力となりました。バール連盟の反乱や、ポーランド分割前夜における対ロシア戦でも、ウーランは軍の中心部隊として活躍します。ポーランド分割が実行された後も、ポーランド人ウーランは分割国ごとの先兵団として各地を転戦します。象徴的な鎧はなくとも、体系化された戦法で敵を圧する。ポーランド騎兵は各国で重宝されるようになりますが、速射に長けた機関銃の登場と共に。槍騎兵であるウーランの存在意義は徐々に薄れていきます。

運用に難点があった 装甲列車

装甲列車シミャウィ(2代目)

 ロシア帝国の弱体化が鮮明になると。独立機運は高まり、第一次大戦中を契機にポーランドは独立回復を果たしました。その際、オーストリアからの戦時賠償として、装甲列車を獲得します。鹵獲された装甲列車は勇敢を意味する「ミシャウィ」と名付けられ、一次大戦後のポーランド・ウクライナ戦争に投入されます。以来、鉄道網が既に領内くまなく敷設されていたポーランドにおいて。装甲列車の存在は優位あるものと認識され、装甲列車も増産されていきます。

 ナチスドイツのポーランド侵攻前には、計10編成もの装甲列車を保有する。文字通りの装甲列車大国として、ポーランド軍は異彩を放っていました。ですが、当時のポーランド陸軍は時代錯誤な慣習に倣っている側面が多く。戦車が投入されたご時世においても、ウーラン騎兵を陸軍の主力に構えている問題点を抱えていました。装甲戦車や戦闘機による爆撃の前には、ウーラン部隊は歯が立たないことは容易に想定できたため。多くのウーラン兵が、歩兵や支援部隊として機能せざるを得ない状況だったのです。また、装甲列車にも課題があり、線路が敷設されていない場所へ移動できない難点など。車両に積載している巨砲を活かす場面も限られていました。

 実際にナチスドイツがポーランド侵攻を開始すると、予想通りポーランド軍は苦戦を強いられます。ポーランド軍は、ウーラン騎兵による伝統的な一点突破戦法でベルリンを攻める計画を打ち立てるも。思惑は大きく外れ、ナチスドイツ軍はウーランが身構えていたポズナンを南北に回避する形で侵攻します。そのため、装甲列車はウーラン部隊の支援と併せて南東のウッチ方面へ移動。道中にナチスドイツ軍と会戦し、損害を負いながらもポーランド軍の合流を支援しました。間もなく、ポーランド軍がワルシャワへの撤退を開始すると。装甲列車も東方へ向かいますが、空襲で損害を受けるもの。現在のベラルーシ周辺でナチスドイツ軍に接収されるもの。後にソ連の手に渡ったものなど。装甲列車大国と言わしめた戦力は、容易く崩壊していきました。

 装甲列車はフサリアの鎧やウーランに変わる。新たなアイコンとして、ポーランド軍では重要視されていました。ですが、運用の制限される場面は多く。過去の槍騎兵戦法から脱出できなかった戦略発想と相まって。装甲列車は、ポーランド軍の壊滅と共に姿を消します。

軍籍を与えられた熊 ヴォイテク

ポーランド軍第2軍団
第22輸送中隊の部隊章
※補給中隊から輸送中隊へ改称後

 ナチスドイツによって装甲列車という大型戦力を失ったポーランド軍は、ワルシャワでも追い詰められた末。友好国だったルーマニアに脱出して、イギリス軍と合流することになります。紆余曲折経てソ連の捕虜となったポーランド軍人も、イギリスとソ連が同盟を組んだため釈放されました。そして、米英がソ連へ武器を供給するペルシャ回廊の任務に従軍するため。中東イランへ移動します。

 部隊移動が完了すると、同行していたポーランド難民から。子熊を預かって欲しいとの依頼が舞い込んできます。地元の少年が母熊を射殺し、肉の缶詰と交換する条件で飼ったものの。手に負えなくなり困っているとの相談から、ポーランド第22補給中隊が世話をすることになります。預けられた熊は戦士を意味する「ヴォイテク」と名付けられ、兵士に懐くと共に。中隊のマスコットとして、駐屯軍内で愛される熊になります。また、幼い熊だったためか。敬礼やレスリングを覚えただけでなく、タバコを好んで食べるといった。人間らしい振る舞いを次第に見せる様になりました。

 ほどなく駐屯していたポーランド軍に、イタリア前線への移動命令が下ります。しかし、利用するイギリス軍の輸送船に動物を載せることが禁じられていたため。駐屯ポーランド軍を率いていたアンデルス中将の計らいでヴォイテクは伍長として徴兵され、熊の兵隊はイタリアへ向かいます。ローマ開放を目的としたモンテ・カッシーノの戦いが開戦すると、ポーランド軍も前線で戦闘を繰り広げました。この状況下、補給部隊に籍を置いていたヴォイテクは、自ら率先して弾薬を持ち運ぶようになります。足場の悪い山岳地帯でしたが、人間一人では持ち上げられない重さの弾薬を運ぶ様子に。戦闘終了後、第22補給中隊の部隊章として、弾薬を持った熊が採用されることになります。

 二次大戦が終わると、米英に味方したポーランド軍人はイギリスに駐留することになりました。これは、ポーランド本国で共産化の波が押し寄せたためで。ソ連の傀儡政権がポーランド人民共和国を建国すると、駐留ポーランド軍人は市民権を失い。ポーランド本国へ帰国できなくなりました。熊であるヴォイテクも例外ではなく、イギリスのエディンバラ動物園に預けられる運びとなります。以来、戦争中に兵役を経験した熊は、イギリスの子ども番組で頻繁に取り上げられるなど。人気者となり、同僚だった退役軍人が訪れると喜び、好物のタバコをもらって食べていたそうです。ただし、1963年に亡くなるまで、園内にいた他と熊と馴染むことを避けていたようです。

 イラン人の子供がポーランド人難民へ熊を引き渡したことをキッカケに。ヴォイテクという兵隊熊の存在は、祖国を追われたポーランド人達に癒しを与える。特異なアイコンとなりました。鎧、騎兵、装甲列車と、それまで軍備を自国軍の象徴に据えてきたポーランド人達にとって。兵役を経験した熊は、ポーランド発の万国で愛されるシンボルとなったのです。

印象的なアイコンを残してきたポーランド軍

 最盛期におけるフサリア騎兵の鎧に始まり、系譜を受け継いで武勇を挙げてきたウーラン騎兵。20世紀に独立回復を成し得た後も、装甲列車や熊といった自国軍を表現する象徴を担ぎ上げてきたポーランド軍。これら特徴的なシンボルを多く生み出せたのは、ひとえに他国民がもたらした戦法や文化を受け入れる。柔軟な姿勢を自国文化へ昇華させるのが得意だった。と、言っても良いでしょう。でなければ、熊のような肉食獣を受け入れても、すぐに射殺したかもしれません。

 今でも、鎧を身に付けたフサリア、近代兵装のウーランは、ポーランド各地の祭りで見ることができます。また、装甲列車は歴史と共に消えましたが、兵隊熊のモニュメントはポーランド国内だけにとどまらず。イギリスやカナダの博物館でも記念碑が制作されています。ポーランド発信の歴史的文化は、国内外問わず定着しつつあるのです。