サッカー選手エジルの代表引退から考えるドイツのトルコ移民

 サッカードイツ代表のメスト・エジル選手が、人種差別を理由に代表引退を表明しました。EUから非難されている。トルコのレジェップ・タイイップ・エルドアン大統領と撮った写真が発端となり、ロシアW杯敗戦の槍玉として差別的批判を受けたのです。この動きにドイツ国内では、移民問題の議論が過熱し、政治家もシビアに反応する事態に発展しつつあります。

ロシアW杯予選敗北の影響

 エジルがロシアW杯後に代表引退を宣言し、どのようなメッセージが広がったのか。順を追って見て行きましょう。ロシアW杯前のドイツは、国際サッカー連盟が加盟国に格付けしているFIFAランクで1位を維持していました。前回のブラジルW杯優勝メンバーも残り、予選グループは難なく突破するであろうと見込まれていました。しかし大会では、競り勝ったスウェーデン戦の勝利以外、恵まれることなく。1勝2敗で得失点差が響き、史上初となるグループリーグ最下位での敗退となりました。

 優勝候補と目されていたチームの敗戦に。ドイツ国民は落胆し、憂さ晴らしとして戦犯選手を探しはじめます。その矢面に立ったのが、トルコ系ドイツ人のエジルでした。所属するイングランド・アーセナルでは、直前まで不調に悩まされていただけでなく。偶然にも2018年5月、ドイツと外交関係が冷え込みつつある。トルコのエルドアン大統領に会い、写真撮影に応じていました。エジル自身、自らのルーツある国へ表敬訪問したつもりでしたが。折しもトルコでは、憲法改正を問う国民投票が終了した直後だったため。賛成票が上回った事実を誇大宣伝するプロパガンダとして。エルドアン大統領は、エジルとの写真をしきりに使用したのです。

 国民スポーツの現役代表選手が、他国の政治活動に関わったとも取られる事態に。ドイツ国内では、過去に積み重ねてきた実績を棚上げにした。エジル非難の声が高まっていきます。これにエジルは2018年7月22日、自身のTwitterを通じて。「勝てばドイツ人、負ければ移民」とドイツで沸き立つ差別視を揶揄し、サッカードイツ代表からの引退を発表したのです。加えて、ドイツサッカー連盟(DFB)のラインハルト・グリンデル会長に向けて。「スケープゴートにはならない」と名指しで批判し、対策に無頓着なDFBの体制へ疑問符を投げかけました。

 エジルが発信したツイートは社会を動かします。ドイツサッカー界の重鎮で、バイエルン・ミュンヘン会長のウリ・ヘーネスが「何年も凄惨なプレーしかしてこなかった」と漏らすと。DFBの組織内だけでなく、欧州圏内でも過度な批判だと議論になりました。一方、Twitterでは、エジルの批判を擁護するタグ「#IStandWithOzil」が広まりを見せ。市井の人々がシリア難民問題と併せて、人種差別反対の声を挙げていきます。さらに外国にルーツを持つドイツ人の若者が「#MeToo」のタグを使い。日常受けた差別体験をSNSで投稿するムーブメントを起こすなど。人権意識が根強いドイツ国家の風土を体現する動きが活発化しました。

 ドイツ政府も問題に反応して、トルコ政府へ。外交上で困難な時期であろうとも、協力するべき課題があると声明で発表します。これには過去、トルコからの出稼ぎ労働者を促し、移民として定住させる環境を創り出した。ドイツが責任を持つべきだと、メルケル政権が判断したのです。

戦後ドイツのガストアルバイター制度

 2010年代に入り、シリア難民の受入れによって。ドイツ全人口8,200万人のうち、22.5%に及ぶ1,800万人が2世以内の外国人となりました。その六分の一に当たる300万人ほどがトルコ系で、エジルの一件により世間から改めて注目されたのです。ここまで多くのトルコ系住民が、なぜドイツに居を構えるのか。それを知るには、第二次大戦後の旧西ドイツ復興の過程によって流入した。ガストアルバイター制度の移民労働者に触れなければなりません。

 ナチスドイツ体制が崩壊し、東西ドイツが分裂して間もなく。旧西ドイツはアメリカ・イギリス・フランスの後ろ盾で、1950年代に入ると経済基盤が急激に回復しました。同時に、旧東ドイツ地域に駐在するソ連軍の脅威へ対抗するため。西ドイツは青年ドイツ人男子を対象に徴兵制を施行しますが、再建最中の産業界における人手不足を助長します。そのため、西ドイツ政府は労働力獲得を狙い。隣国イタリアを皮切りに、南欧諸国から広く出稼ぎ労働者を受け入れました。特定の2国間で結ばれる。滞在期限を設けたガストアルバイター制度は、60年代から70年代にかけて。ドイツにおける肉体労働を下支え、工業国家ドイツの礎を築きました。

 トルコとのガストアルバイター協定を西ドイツが結んだのは1961年のこと。当時、軍事クーデターによって経済事情が冷え込んでいたトルコ国内では、安定した職が激減していたため。より稼ぎの良い西ドイツへ出稼ぎに向かう若者が続出しました。彼らは、トルコでは稼げないと割り切って、劣悪な労働環境下でも仕事に励み。次第に西ドイツ産業界も、ガストアルバイター達を重要な労働力として。滞在期限を撤廃するように西ドイツ政府へ要求し、1964年に2年間の期限は廃止されました。そのため、トルコ人ガストアルバイター達は実質的な移民として、ドイツ社会に溶け込み。トルコに住む家族も移民として呼び寄せる風潮が生み出されました。

 オイルショックが起因して、ガストアルバイター協定は1973年に停止されますが。移民と化したトルコ人達は子供を成し、次第に二重国籍を持つ。外国人労働者の2世が急増ました。頭を悩ませた西ドイツ政府は1982年、移民化した外国人達に母国への帰国を促す。外国人帰国促進法を制定しました。しかし、生活基盤を築いたトルコ人たちは、母国で再び発生した軍事クーデターを恐れて帰国することなく。逆に、迫害から逃れたクルド系トルコ人達が、大挙して西ドイツへ難民申請する事態に陥ります。この中には、生活難から就労移民として、西ドイツ入国を試みようとするトルコ人も相当数いました。

 複雑な事情を抱えたトルコ人移民や難民の受入れに、西ドイツでは移民排他論に熱を帯び始めます。しかし、同時期に発生した世界的な社会主義体制の崩壊によって。トルコ人移民の排斥運動は、激しさを増していきました。

東西統一後の大移動による法整備

 ソ連で始まったペレストロイカ政策によって、80年代後半から東側陣営の体制崩壊が進み。ベルリンの壁に代表される。東ドイツ政府の瓦解が誘発されるなど。東西ドイツは歴史の転換点を迎え、1990年に念願のドイツ統一を果たします。他方、ユーゴスラビア崩壊後の紛争によって、西欧諸国への移民流入は止まることなく。東側陣営の国家に住んでいたドイツ人流入と併せ、大きな社会問題として新生ドイツは対策に追われます。

 これを予期して旧西ドイツは事前に議論を重ねて、1991年に外国人法を東西統一して間もなく施行させました。これは、すでに定住しているトルコ人などの元ガストアルバイター層の現状を鑑み。事実を追認する形で制定した事後策で、90年代に発生した数々の事件に向けた抑止力とはなり得ませんでした。統一後の旧東ドイツ領内では、高い収入が見込める旧西ドイツ領内へ引っ越す国民が相次ぎ。経済基盤が沈下した結果、失業する旧東ドイツ国民が続出。不満をトルコ人などの外国人移民へぶつける暴行事件が多発するなど。深刻な社会不安を煽りました。

 他方、移民2世が政財界で活躍し始める時期へ差し掛かり始め。制度的な外国系国民の社会統合が待った無しの状況に。ドイツ政府は移民や難民に配慮した制度設計を急ぎます。まず2000年に国籍法の改正し、二重国籍に関する規制緩和を実施しました。その後2005年に施行された移住法で、国外からの難民を実質的な移民として支援できるよう。叫ばれ続ける移民排斥の声を他所に融和策を実施していきます。

 この政策が実現できたのは、「第四次メルケル大連立政権にドイツ国民は不安視する」で少し触れたように。左翼政党であるドイツ社会民主党(SPD)が政権を担っていたところが大きく。右派のドイツキリスト教民主・社会同盟(CDU・CSU)と左派SPDによる大連立政権が成立した後も、首相に就いたアンゲラ・メルケルがCDU主流派ではなかったため。トルコ系住民や外国からの難民に対する政府の姿勢に変化はありませんでした。同時に、政府の一貫した移民懐柔姿勢は国民にも浸透していき。ヨーロッパ随一の人権主義国家として、ドイツは周辺国から認知される様になります。シリア難民危機で110万もの難民を受け入れられたのは、なにもメルケルの人徳だけではなく。東西統一後の移民難民の流入に対応した結果なのです。

 トルコ人の血を引くエジルへの非難が高まりながらも、それ以上に擁護の声が盛り上がるのは。キリスト教圏外にルーツを持つドイツ国民でも定住しやすい。寛容な社会をドイツ政府が目指した功績の現れと言えるかもしれません。

非民主的な民主国家トルコ

 ガストアルバイターに始まり、東西統一の混乱を経て、実質的な移民出迎え体制を構築してきたドイツ。長年の積み重ねてきた移民への柔軟性は、他国が易々と真似できない仕組みとなりました。他方、常に人口が流出しているトルコから。移民や難民がドイツへ流れ続けるのはなぜでしょうか。

 最大の理由は、オスマン帝国が崩壊してから。一貫して、独裁政権が軍のクーデターで崩壊することを繰り返してきた歴史に由来します。二次大戦後に共和人民党(CHP)の一党独裁体制が崩壊し、民主党(DP)が政権を握るも同様に独裁化が進み。1960年に最初の軍事クーデターが実施され、DP政権関係者は処刑されます。その後DPの後継として公正党(AP)が結党されるも、CHPとの二大政党体制は民主的ではなく。左右両派の対立が激化したため、トルコ軍は1980年に再びクーデターを実行。主要4政党を解体させるものの、散り散りになった政党の関係者が祖国党(ANAP)を結党し、軍事政権誕生を防ぎます。

 幾度とない政治情勢の不安定感が、トルコ経済の成長を鈍化させたのは言うまでもなく。1度目の軍事クーデターが実施されて間もなく、西ドイツとのガストアルバイター協定が成立すると。多くのトルコ青年が、安定した収入基盤を得るため。異国の地で厳しい労働環境に身を置く決断をしたのです。トルコ人の出稼ぎ労働は西ドイツだけでなく。ベルギーなどの西欧諸国にも広がりを見せ、欧州各地にトルコ移民が定住したため。トルコ政府は90年代、EU加盟を念頭に置いた動きに乗り出しました。

 ですが、トルコの法律は軍事クーデターの煽りを受けて制定された1982年憲法によって。集会の実施、イスラム教以外の宗教信仰、トルコ語以外での表現条項など。多くの権利が制限されていました。特に死刑執行については、EUが規定するところの人権侵害に相当したため。トルコはEUの助言に基づき、安定した民主国家へ変化する道を歩み始めます。政界の混乱も1997年、イスラム右派政党の福祉党が非合法化されて以来。ANAPを中心とする連立体制で一時安定したため。厳しい憲法規定は滞りなく廃止されていきました。

エルドアン政権の強権主義

 一方、非合法化された福祉党の議員だったエルドアンは、新たに公正発展党(AKP)を組織。経済市場の変動相場導入で経済危機を招いた連立政権の失策によって、2002年に政権与党を担います。以来、EU加盟に向けて死刑制度を廃止するなど。前政権の親EU路線を引き継ぎつつも、反政府的な発言をする個人や団体を徹底して弾圧したため。世界各国から強く非難され始めました。また、シリア内戦情勢を悪化させ、二次大戦後最大の難民発生に加担するなど。強権的な方針は、国際社会に波紋を呼びます。

 エジルとエルドアンの写真撮影がドイツで非難されるのは、クルド人差別のほか。非人道行為を容認したエルドアン大統領に対し、良い心証を懐いていない。相当数のドイツ人が存在する事実の裏返しなのです。他方、ガストアルバイター第3世代のトルコ人は、親や祖父母世代ほどドイツ政府に厚遇されておらず。苛立ちを募らせているのが現実で、トルコ系ドイツ人の間では、強いリーダーシップでトルコの経済成長を先導した。エルドアン大統領を支持する動きが、キリスト教社会との不満と相まって加速しているのです。

 政治混乱がガストアルバイターという移民を生み出し、EU加盟を目指すも半ば独裁体制を敷く様相を見せる。長く続いたトルコ政治の不安定さは、欧州社会に移民問題を湧き立たせました。さらに、軍やエルドアンなどの強権主義者達によって、政治が先導される国家風土が成熟された結果。多様性に欠ける、非民主的な民主国家として21世紀の難民問題を助長しているのです。

移民国家ドイツの命題

 ガストアルバイターの子孫に当たる移民問題は、ドイツだけでなく。東西冷戦時代に大量の外国人労働者を受け入れた。ヨーロッパ全体の問題です。シリア難民危機以後、右傾化の波が欧州各国で押し寄せていますが。その要因の1つには、トルコ人などのイスラム系移民に対する。欧州キリスト社会の冷ややかな差別心も挙げられるのです。さらに、強権な政治家が国政を先導してきた。トルコ政府を忌み嫌うヨーロッパ人は珍しくなく。エジルの様なドイツ生まれのトルコ系市民が非難対象となるのは、大小あれど日常茶飯事なのです。

 ただし、メルケル首相を筆頭とする。人権擁護の考えを備えるドイツ人は、イスラム差別を叫ぶドイツ人よりも多く。その現れとして、SNSでエジルをなだめるツイートが広く拡散されるなど。人種差別を許さない考えは、ドイツ社会に根付いています。トルコ政府との関係が冷え込んでも、自国に住むトルコ移民の尊厳を守るドイツの姿勢は。移民を受け入れる全ての国家が参考とするべき、指針とも形容できるのです。