心の国境に遮られる2015年イエメン内戦の和平交渉

 中東国家イエメンで発生している2015年イエメン内戦の和平交渉が2018年9月6日、国連仲裁下でスイス・ジュネーブで執り行われるはずでしたが、シーア派のフーシ運動が身の保障を危惧して交渉会場に姿を現しませんでした。これにスンニ派諸国の支持を受けるハーディー暫定政権側の機嫌を損ね、およそ和平交渉とは思えない状況に陥っています。

南北イエメンの歴史

 イエメン内戦の根本的な要因を知るには各国の対立関係によって敷かれた国境に起因する、南北イエメン分断の歴史を振り返らなくてはいけません。古代イエメン周辺はアラビアの中心地として栄え、7世紀にイスラム教が流入するとシーア派系ザイド派のイマーム(シーア派教徒の最高権力者)がイエメン王国を建国。1636年にオスマン帝国による統治体制を事実上瓦解させた後、コーヒー輸出による交易で繁栄を築き上げました。

 時流が変化したのは1728年、現在のアデン北部を治めていた地方の統治者達がイエメン王国に反旗を翻し対立。新たなイマームを担ぎ上げる動きが活発化して首長国が群雄割拠する時代を迎えました。同時に植民地拡大を進めていたイギリスは中東における海上交易の拠点を抑えられると踏んで財政支援を餌に各首長国を懐柔、イギリス保護領として委任統治させました。

 他方イエメン王国は北で国境を接する国々のスンニ派化が進行していたものの、国土が急峻な山岳地帯に覆われていたため中世の統治システムが色強く残る王朝として時代の変化に取り残されていきました。ですが、スエズ運河か開削される19世紀中頃に入るとオスマン帝国が山岳地帯の直接統治に乗り出したため王家は衰退の末に形骸化しました。こうして、保守的なシーア派思想によって治められるオスマン帝国領の北部。近代文化とスンニ派思想の流入によってイギリス保護下となった南部。大国の都合で国境が敷かれた南北イエメンはアラブ最貧国へ歩み始めます。

南北イエメンの内戦と統一まで

 オスマン帝国とイギリスの影響下にあったイエメンですが20世紀に入ると、固定化された国境を基に南北それぞれが独立する運びとなります。オスマン帝国が第一次大戦で敗北が濃厚となった1918年、オスマン帝国の影響下にあった諸国は独立に向けて動き出しました。イエメンも例外ではなくイエメン・ムタワッキリテ王国を再興して国境を隔てた先の南部奪還へ野心を燃やします。

 とは言え、王国による国家統治は時代錯誤甚だしく国境を巡ってサウジアラビアと戦争に突入するも敗北して国は弱体化しました。第二次大戦が終わる頃には民主化を求める自由イエメン運動が国内全土で広まり王家に対するクーデターも頻発します。時のアフマド・ビン=ヤフヤ国王は危機感を抱き、スエズ動乱でイギリスから独立を勝ち取ったエジプトの呼びかけでアラブ国家連合に参加。体制再建を狙うものの1962年にアフマド国王が死ぬとエジプト政府は民衆の支援へ回って王家を国外追放し、イエメン・アラブ共和国が成立して北イエメン内戦を経て完全な民主化が達成されました。

 国境を隔てた南部では第二次大戦後の東西冷戦によってイギリスが各首長国を南アラブ首長国連邦として独立させます。しかし、貧困に喘ぐ国民が社会主義を掲げるイエメン民族解放前線(NLF)を結成して既得権益と成り果てたイギリス依存体制を批判し、各首長国の行政機関へテロ行為を続けソ連も巻き込むアデン危機が勃発させました。大衆の勢いに圧されたイギリスは南イエメンから手を引き、ソ連の衛星国となるイエメン人民共和国が成立しました。ですが、その後のアリ・ナシム書記長の独裁体制へ怒りが爆発すると南イエメン内戦が勃発。1万人の死者と6万人の難民を出した末に南イエメンは財政破綻しました。

 これに予てから南部奪還を目標としてきた北イエメンは財政支援の名目で南イエメンへ統一を提案します。奇しくも、時代はソ連が崩壊して間もない1990年だったため南イエメンも提案に応じ、北イエメンに吸収される形で南北統一が実現しました。しかし、財政的に優位に立つ旧北側が幅を利かせる政治体制が築かれたため旧南側の不満は募り、再度分離を求めるイエメン内戦が1994年に勃発します。事態は2ヶ月ほどで鎮静化しますが旧南側がスンニ派アラブ諸国から支援を受けた現実はシーア派の旧北側とすれば納得できませんでした。

北イエメンの不満がフーシ運動を生んだ

 計3度の内戦を経験してイエメン社会は一応の安定を得たものの、旧北側出身のアリー・アブドッラー・サーレハ前大統領による独裁化が進んで民主国家とは呼べないほどに政治的自由は失われ、南北問わず国民の貧困化は急速に進行しました。さらに、自らを純粋なイエメン人と自負する旧北側のシーア派住民。周辺アラブ諸国との懐柔を重んじる旧南側のスンニ派住民のいがみ合いは続き、国家全体として心の国境は取り払われない様相を呈していました。

 複雑に入り組んだ社会環境は武力行使によってイエメンを再興しようと狙う過激な思想集団を生み出す主要因となりました。その先鋒がイエメン暫定政府と内戦を繰り広げているフーシ運動でした。北イエメンで有力な聖職者家系出身のフセイン・バドルッディーン・フーシによって「信仰する若者」として創設されたフーシは90年代に支持を急拡大させ、2004年から2010年までイエメン軍との戦闘状態に突入して事実上の勝利を収めました。この勢力拡大の背景には湾岸戦争の煽りでイエメン経済を悪化させたアメリカやスンニ派国家などに寛容な姿勢を見せ、旧北側の伝統を軽んじる政府方針に反発したシーア派住民達の感情を支えにフーシの支持が拡大していった様子が伺えます。

 そして2010年代に入りアラブの春による政権打倒運動が活発になると、北イエメン時代から独裁政権を維持してきたサーレハは2011年イエメン騒乱で失脚。旧南側出身のアブド・ラッボ・マンスール・ハーディーが大統領へ就任しました。同時にイエメン国内では既存政党への信頼が失墜したため、フーシを支持する動きは旧南側出身者を含み増して広がりを見せて国土の実効支配へ動き出す主要因にもなります。2011年イエメン騒乱の事後処理を定めた国家対話会議で合意した取り決めも十分に履行されなかった挙句、弾劾されたサーレハを味方に付けたフーシは2015年1月に大統領府を占拠してハーディー政権を実権から追放したのです。

2015年イエメン内戦

 大統領府のある首都サヌアを抜け出したハーディー大統領は南イエメンの首都だったアデンに拠点を置き、すぐにスンニ派アラブ諸国に救援を要請しました。ほどなく、フーシがアデンへ進軍を開始するとハーディー大統領はサウジアラビアへ脱出して2015年イエメン内戦か始まります。

 ハーディー大統領の身柄を引き受けたサウジアラビアは2015年3月に国境を越えてフーシの勢力範囲に空爆を開始。9月までにアデン周辺のフーシ勢力を一掃してハーディー大統領はイエメンの地に戻りました。ですが、サウジアラビアを中心とする連合軍はサヌアやアデンなどの主要都市だけに止まらず、フーシ関係者の結婚式にも空爆を実施するなど国際社会が容認できない戦争犯罪を繰り返しました。

 一方、フーシ側も反撃に打って出ます。2015年10月には弾道ミサイル・スカッドをサウジアラビア空軍基地に向けて発射したのを皮切りに、サウジアラビア首都のリアドに向けても国境を越えて改良したスカッドを放つなど、イラン経由で流入したと考えられる弾道ミサイルを80発以上サウジアラビアへ打ち込みました。またフーシは実効支配地域の統治を明確化するため、2016年10月に救国政府を樹立してハーディー暫定政権への対立姿勢を鮮明とさせました。

国境封鎖から和平交渉へ

 サウジアラビア連合軍による空爆やフーシによる弾道ミサイル発射によってアラビア半島の安全保障環境は一気に緊張感が高まります。一方、地上ではハーディー暫定政権側が旧南側地域を着実に奪還してフーシの勢いは次第に衰えはじめました。シーア派国家としてフーシを支援してきた国家も次第に国際社会からの追及を受ける様になります。

 2017年にはシーア派国家のカタールが、サウジアラビアなどスンニ派国家からフーシを支援したとして国交を断絶。イランも2018年に国連安全保障理事会にてフーシに武器を供与したとして咎められますが、ロシアの拒否権行使によって直接的な制裁を免れました。しかし、内戦を引き起こしたフーシに対する国際社会の制裁は容赦なく実行されます。2017年11月、フーシが発射した弾道ミサイルがサウジアラビアのキング・ハーリド国際空港へ飛来したことをキッカケに、サウジアラビア政府はイランからの武器流入を防ぐためイエメン国境の封鎖を決定。フーシ支配圏内の食糧事情を著しく悪化させました。

 フーシに担ぎ上げられているサーレハ前大統領も戦闘継続が困難だと考えて和平協議の意思を示すものの、戦闘継続を望むフーシ救国政府に粛清され自宅もろとも爆破されます。ただ、国境封鎖によりフーシの戦力は急激に弱体化してきます。2018年に入ってからは海上でスンニ派国家船籍の石油タンカーを強襲するなど資源獲得を目的とした奇襲が目立ちはじめ、フーシの政治部門トップであるサーレハ・アリ・アル=サマドがサウジアラビア連合軍の空爆で殺害されるとフーシも和平交渉への道を探り始めます。

 そして国連は2018年8月に双方を中立国スイスのジュネーブへ集めて国連が仲介に立つ形で和平交渉を実施することを提案、双方和平に応じると返答しました。しかし、フーシ側の交渉団からは、侵略者たるアメリカやサウジアラビアと真っ当な和平交渉ができるのかと懸念を示した上で、サヌアへ無事帰還することを条件にジュネーブへ向かうと表明。交渉開始が予定されていた9月6日に会場へ姿を見せずハーディー暫定政権側を憤慨させる事態が発生しています。

国民への被害は無視され続ける

 長年のサーレハ独裁政権を打ち砕いたものの後を引き継いだハーディー大統領は過激なフーシの勢いを止めることができず、中東のシーア派とスンニ派が対立する内戦を引き起こしました。国民もサーレハ前大統領が失脚したときは政治が貧困を解決してくれない状況に失望している傍ら、一抹の希望くらいは見ていたのではないでしょうか。しかし、欧米キリスト教社会への憎悪を交えた望みはフーシの活動を勢い付けて国民を貧困のどん底へ突き落したのです。

 内戦が泥沼化して以降。イエメンでは約800万人もの一般市民が餓死の危機に直面し、1万人以上が命を失っています。さらに、紅海を渡った先のジブチやエチオピアには毎日の様にイエメン難民が押し寄せ、劣悪な環境で国民達は宗派を問わず生活しているのです。本来、宗教や信条は人々の営みを豊かにするために存在しているにも関わらず。宗派思想の違いから国を荒廃へ導いた罪は暫定政権もフーシも背負わねばなりません。互いの妥協点を探り協調する社会を生み出すことこそイエメン復興の原動力となるのです。