第一次世界大戦の戦況 ~西部戦線編~

 フランス・パリで2018年11月11日、各国代表が招待され100年前に終戦した第一次世界大戦の追悼式典が執り行われました。日本では馴染みの薄い20世紀初頭の戦争ですが、一次大戦は今日の世界情勢を形作った大戦として欧米諸国は非常に強い当事者意識を持っています。特に、開戦から終戦まで一環として戦場となったフランスでは、兵器、戦法、政治体制に大きな変化を及ぼした戦争として記憶されているのです。

サラエボ事件からベルギー進軍まで

 世界史の授業を一度習った人ならご存知でしょうが、第一次世界大戦は1914年オーストラリア=ハンガリー帝国の皇太子フェルディナンド夫妻がセルビア人青年ガヴリロ・プリンチップによって射殺された。サラエボ事件をキッカケに、イギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国、ドイツ・オーストラリアを中心とする同盟国が対立を深め、芋づる式に戦火が拡大した戦争です。ただ、その詳しい内情を語ると様々なすれ違いから開戦に至った経緯がよく分かります。

 はじめに、当時のバルカン半島情勢は「コソボ独立に国際社会の見方がなぜ割れるのか?」を一読していただけると感じ取れるように、19世紀のオスマン帝国弱体化に伴う民族意識の高揚でバルカン半島の各民族は国家樹立を目指していました。セルビア人も例に漏れず1887年に王国体制を成立させますがオーストリア寄りの王家とロシア寄りの議会が対立、王家による反対勢力弾圧に反旗を翻した人々による5月クーデターによって専制政治が終わりを告げます。これにオーストリアが経済制裁で対抗するも失敗し、1908年にセルビア人が多く住むボスニア・ヘルツェゴビナがオーストリアへ併合されると、セルビア国内では反オーストリアを掲げる秘密結社「統一か死か」が結成されました。その構成員プリンチップによって引き起こされたサラエボ事件は、以前よりセルビア人の間でくすぶっていた憤懣が爆発した結果と言っても過言ではないのです。

 皇太子夫妻殺害に激怒した時のオーストリア外務大臣ベルヒトルトはドイツの全面支援を取り付け、即座にセルビアへ最後通牒を送りました。これはオーストリアがセルビアを庇護下に治める大国ロシアへの警戒心からでしたが、セルビアが最後通牒の内容をほとんどを呑んでもオーストリアは容赦なく、1914年7月28日にセルビアへ宣戦布告して第一次世界大戦が開戦します。しかし、セルビアへの派兵が決まると鉄道ダイヤの都合上小規模の軍隊派遣が困難だと判明して、師団をまとめて動かす総動員をオーストリアが実施するとロシアも追うように総動員を決めました。

 これに沿って、オーストリアへの全面支援を約束していたドイツも戦争参戦に舵を取らざるを得ず東西国境に向けて軍を展開。予てから策定されていたシュリーフェンプランに従って中立国ベルギーへ進軍を始めます。

西部戦線1914

 火蓋が切られた1914年当時、ヨーロッパ各国ではクリスマスまでに戦争は終わると楽観視されていました。これは西ヨーロッパで普仏戦争以来40年以上大きな戦争が発生していなかったこと、工業技術の進歩が人類に永遠の平和をもたらすと信じられていたことなど。凄惨な争いは過去のものだという考えが根強く定着していたからです。しかし実際には戦争は長引き、軍へ志願した若者たちは前線でクリスマスを迎えることになります。

シュリーフェンプランとプラン17

 ドイツがベルギーへ進軍する際に規範としたのが1905年に対仏侵攻を想定して計画されたシュリーフェンプランです。ドイツ軍参謀総長だったアルフレート・シュリーフェンが中心となり打ち立てられた侵攻計画で、仏独国境の北に位置するベルギー・オランダを蹂躙してフランスへ入り49日間でフランス陸軍を壊滅させる内容でした。

 当然、強引に国土を通過されるベルギーが黙っているはずもなく、1914年8月4日にリエージュ要塞へドイツ軍が攻撃を開始すると機関銃でドイツ兵をなぎ倒しました。ですが、ドイツ軍が導入した新型大砲ディッケ・ベルタの威力を前に要塞の壁は易々と破壊され敗北。ベルギー軍はフランスに軍事支援を要請することとなり、国民は難民となってフランスへ押し寄せました。国境沿いの非常事態にフランスは陸軍の展開を急ぎ、イギリスもドイツ軍のドーバー海峡突破を懸念して海外派遣軍(BEF)を結成してフランス本土への派兵を急ぎました。

 フランスも有事にドイツへ進軍するための侵攻策プラン17に沿って反転攻勢に出ます。これは仏独国境を通過してドイツ南西部へ侵攻する内容で、その先の炭坑地帯アルザスロレーヌ地方(現:フランス領)を即座に抑える計画でした。しかしフランス軍の進軍はドイツ側が事前に掘っていた塹壕からの砲撃や機関銃を前にして足止めされ、逆にフランス領内に侵入したドイツ軍がひと月足らずでパリに近づきつつありました。ただベルギーを突破したドイツ軍主力は補給問題にぶち当たり、クルックターンと呼ばれる反転を行ったことで隙が生まれたため、英仏両軍は好機を逃さずエーヌ河までドイツ軍を追い払うことに成功します。

 ドイツ軍の判断ミスから生じた綻びを逃さず英仏両軍が体制を立て直した。マルヌ会戦と称されるこの緒戦は後に奇跡と呼ばれるようになりますが、同時に戦争の長期化を決定づける塹壕戦への突入を決定づける戦ともなったのです。

第一次イーペルの戦い

第一次イーペルの戦いにおける前線
※Wikipediaより

 塹壕戦に突入して両陣営は競い合うように塹壕を北へと掘っていきました。一方でベルギー軍は自国領土東部のアントワープで持ち堪えていたため、イギリス軍は海兵隊を派兵してベルギー軍をフランス方面へ逃がす作戦を行い、塹壕による戦線整理とベルギー軍の連合軍合流を実現させます。

 しかしイギリス本国から派遣されていたBEF本隊がフランス側の思惑でイーペルに留まったため、塹壕はイーペル周辺が目立つように突き出て形成されました。ベルギー軍主導による湾岸地帯の水攻め作戦によって連合軍は不自然な突起部解消に動き出すものの、イーペル南部の高台を目指して攻勢するドイツ軍によってBEFは追い詰められました。すぐにフランスからの支援が入りBEFは危機を乗り越えましたが突起部解消は叶わず、共同戦線で生じた信頼関係の歪みは後々の連携不和を招く要因となります。一方ドイツ軍は3度も攻勢に出ながら目立った成果を挙げることができず、11月末になると西部戦線は膠着状態となりました。

 双方合わせて10万人以上もの死傷者を出した第一次イーペルの戦いは冒険気分で志願兵となった両陣営の若者に恐怖と畏怖を与え、同時に派兵された常設軍隊の兵員数を根こそぎ減らす大規模な会戦となりました。ですがその後、次々に戦地へ導入される新兵器によって第一次世界大戦の死傷者数は桁違いに増加してきます。

クリスマス休戦

 第一次イーペルの戦いによる攻防が停滞すると両陣営は塹壕を隔てて睨み合い、散発的な小規模戦闘を繰り返すようになりました。戦争に必要な物資弾薬も不足し、いつしか西部戦線では死体回収などに充てられる休戦時間が暗黙のうちに設けられるようになります。その頃、バチカンのローマ法王ベネディクトゥス15世が大戦参加国に対してクリスマスに休戦するよう呼びかけました。

 世論ではクリスマスまでに終戦すると考えられていただけにドイツはこれに応じる表明を発表、12月24日に歌手が派遣されてクリスマスパーティーが実施されます。他方、自国領土が攻められている連合国側は応じませんでしたが、ドイツ側の塹壕から聞こえてくるきよしこの夜のフレーズに誘われて、激戦地イーペル周辺から自然多発的に休戦状態が西部戦線全体へと広がっていきました。地区によっては年末まで休戦して両軍の兵士が行き交う状況が生まれただけでなく、サッカーの試合が開催される部隊も現れますが、両軍上層部はこれを由とせず戦闘再開を要求。年が明ける頃にはあるべき姿に戻ります。

 以来、両軍ともクリスマス時期は普段よりも砲撃頻度を上げて戦意喪失を防ごうと躍起になりました。さらに連合軍は非公式行為だとして、クリスマス休戦の出来事を公に認めない態度を強固とします。1914年末の平穏は西部戦線において最後の穏やかな期間になったと言えるのかもしれません。

西部戦線1915

 クリスマス休戦を経て塹壕際の緊張感は高まり、小規模な戦闘が散発する日々に逆戻りしました。とは言え戦況は膠着化したため、イギリスはカナダとインド、フランスはモロッコとアルジェリアから植民地軍を招集して部隊を立て直し、数的優位を掴もうとします。対するドイツでは科学者フリッツ・ハーバーによって毒ガス開発が進み、第二次イーペルの戦いにおいて人類史に残る大規模毒ガス作戦が決行されました。

第二次イーペルの戦い

毒ガス開発を先導した
ドイツのフリッツ・ハーバー博士
※Wikipediaより

 19世紀の産業革命期に入ると殺傷能力の高い毒ガスが戦場へ持ち込まれる恐れが高まったため、1899年のハーグ陸戦条約において戦場での毒ガス使用が国際的に禁止されます。しかし、一次大戦が開戦して間もなく両陣営とも催涙弾などを作戦で使用しており、条約の形骸化は火を見るよりも明らかでした。

 ドイツ軍は一次大戦に入ってから1915年1月31日に東部戦線で大規模な毒ガス散布を決行したものの、冬の寒さから期待されたほど威力を発揮せずロシア軍の返り討ちに遭っており、次回毒ガス作戦の実施場所を春季の西部戦線と定めて隠密に動いていました。そして開発者ハーバー立ち合いの下、4月22日にイーペル突起部北部へ向けて120トンの塩素ガスが散布されます。塩素ガスは瞬く間にフランス軍とアルジェリア軍を襲い6,000人もの兵士が死傷、2日後にはカナダ軍へ向けて塩素ガスを散布されます。しかし、塩素ガスは水を含んだタオルで呼吸器官を守れば即死を防げたため、ドイツ軍は大攻勢をかけた割に期待したほどの成果を挙げられませんでした。

 一方で毒ガス攻撃を受けた連合陣営の足並みが乱れます。イーペル突起部を守っていたイギリス軍やその植民地部隊は大きく損害を受けてフランスに増援を再三申し出るも、フランスも単独作戦で急激に兵員を消耗していたので増員を送れず英仏間の関係は悪化の一途をたどりました。ただ戦略的に問題視されていたイーペル突起部は成り行きではあるものの放棄に成功しており、ドイツ軍もイーペル近くまで陣地を広げることに成功します。

 過去最大規模の毒ガス攻勢を発端とする第二次イーペルの戦いは参戦各国に衝撃を与え、その後両陣営における毒ガス開発競争を過熱させる決定的な事件となりました。イーペル最初の毒ガス作戦が悲惨な大量虐殺兵器の開発を後押しする主要因となったのです。

西部戦線1916

 連合陣営は第二次イーペルの戦い後にシャンパーニュ、ロスで攻勢へ出るもドイツ軍に敗北。続くアラスの戦いも痛み分けに終わり、膠着状態下でありながらもドイツ軍に押され始めました。優勢に立っていると捉えたドイツ軍は大要塞ヴェルダン攻略を目指しますものの、多方面の同盟軍苦戦の報を受けて兵力を引き抜かざるを得なくなり敗戦。夏場のソンムの戦いでは戦車の投入によって侵攻計画は破綻します。

ヴェルダンの戦い

ヴェルダン要塞攻略の地図
図中の黒線は前線、桃点は堡塁位置を示す
※Wikipediaより

 東部戦線でドイツ軍優勢となった1915年末。ドイツ軍参謀本部は次回の総攻撃をフランスが誇る大要塞ヴェルダンに定めます。鉄道路線などの補給面でドイツが地理的有利だっただけでなく、歴史的にフランス防衛の要とされたヴェルダンを執拗に攻めることで心理消耗戦へ持ち込むのが狙いでした。ですが指揮官を務める皇帝ヴィルヘルム2世の子息、ヴィルヘルム皇太子の独断による過剰な戦力配置を参謀本部は止められず1916年2月21日ヴェルダン侵攻が始まります。

 作戦開始9時間で10万発もの砲撃を放った後に火炎放射器部隊を投入して歩兵の一掃を図ったドイツ軍は、たった5日で要塞北側を抑えることに成功しました。対するフランス側は夏に予定されていたソンム攻勢の準備から初動対応が遅れたものの、トラック輸送による新たな補給路を早急に作り出してドイツ側の予想を超える抵抗を見せます。さらにドイツ軍が立てこもる要塞の各堡塁で猛攻を受けながらも、フランス軍はリエージュ要塞を落とした大砲ディッケ・ベルタ13門のうち9門の破壊に成功しました。そしてドイツ軍は東部戦線におけるロシア軍攻勢とオーストリア軍瓦解寸前の知らせが入り、西部戦線の戦力を減らさざるを得ず弱体化。ソンムの戦いと並行してフランス軍が反転攻勢に出ると、12月にヴェルダンでの戦闘は一段落しました。

 大攻勢に出ながらも多大なる犠牲を出した上だけでなく、作戦に失敗したヴィルヘルム皇太子は責任を追及され現地司令官を解任されました。さらにドイツ軍はヴェルダン攻略のために30万人以上の死傷者を出しており、無駄に兵を死なせた戦として同盟国側に暗い影を落とすことになります。

ソンムの戦い

世界初の戦車 イギリス軍MkⅠ
※Wikipediaより

 ヴェルダンの戦いでドイツ軍が兵員を東部戦線へ移動させる隙を見た連合軍は7月1日、戦線北部のソンムにて大規模攻勢を実施します。これはイギリス軍とフランス軍が担当する戦線の接続部に当たるソンムから横並びに侵攻して、ドイツ陣地の占領を画策する内容でした。しかし、ヴェルダン要塞の危機的状況にまたしても英仏の足並みが揃わず、イギリス軍が6月末に先行してソンムに大規模砲撃を開始します。

 連合軍の進行開始は7月1日にドイツの強化拠点真下に設置した爆弾を起爆させたのを合図に始まりますが、ドイツ兵はコンクリートで固めたバンカーに身を潜めて無事だったため手痛い反撃を受け、連合軍は動員数の92%に当たる75,000人以上もの死傷者を出す大打撃を受けます。他方、敵方のドイツ軍は前線の現状維持に務める方針を取って9月に入る頃には大攻勢の勢いは失せていました。行き詰った連合軍は9月15日の攻勢で戦車を導入してドイツ軍を驚愕させるものの、見切り発車扱いした戦車は本来の性能を満足に出せず期待された程の活躍はしませんでした。

 しかしながらドイツ軍を奇襲する形で戦車を送り出した効果は絶大で、その後の西部戦線では大量の戦車が投入される流れが生まれます。また戦略的な有用性からガス弾の使用頻度も双方高くなり、ソンムの戦い全体を通した死傷者数も110万人以上に達し、西部戦線は大戦初期に想定されていなかった数の命が失われる地獄となっていました。

西部戦線1917

 ヴェルダンの戦いと同じころ。イギリス海軍とドイツ海軍がデンマーク近くで対戦したユトランド沖海戦においてドイツ軍が戦略的敗北を喫し、ドイツ国内の食糧事情は急速に悪化しました。さらにドイツ軍は無制限潜水艦作戦によってアメリカを敵に回すことになり追い詰められていきます。一方、フランス軍内部でも戦争の兵士たちの反乱が起こって事態収拾に追われました。

ニヴェル攻勢

ヴェルダンの戦いで功績を挙げたロベール・ニヴェル総司令官
※Wikipediaより

 ソンムの戦い終了後、フランス軍はヴェルダンの戦いで功績を挙げたロベール・ニヴェルを新たな陸軍総司令官に任命して、次の春季攻勢に向けてフランス軍主導の攻勢計画を打ち立てます。対して海上閉鎖による食糧難(カブラの冬)に陥ったドイツは状況を立て直すため、アラス~エーヌ河150kmもの大突起部を捨てて新たな防衛線。ジークフリート線を作り出して連合軍の春季攻勢に備えました。

 そして1917年4月16日エーヌ河付近よりフランス軍が移動弾幕射撃を行いつつ攻勢を開始します。ニヴェルは前年のヴェルダンの戦いで大砲ディッケ・ベルタに大損害を与えた。先頭の大砲による砲撃後に煙幕の中を歩兵が進む戦術を移動弾幕射撃と名を付け、春季一斉攻勢でも同様の戦法を実施したのです。しかし、砲撃の煙幕が風向きによっては歩兵を隠せないこと、少人数部隊が逐一侵攻地点を司令部へ連絡する手間などの難点が多く、湿地を進んだことも相まってフランス軍は18万人以上もの死傷者を出しました。また敵の集中砲火が止まないうちに進軍する移動弾幕射撃は兵士から不評を買い、攻勢参加兵のうち半数以上が命令拒否する事態に陥ったためニヴェルは総司令官を辞職。一連の反乱は6月になるまで収拾しませんでした。

 開戦から3年近く経ち兵士の疲労が鮮明となったニヴェル攻勢の反乱以後、連合軍は反省からむやみに突撃作戦を決行しなくなりました。これはアメリカ参戦の影響もあって、不用意に攻める時期ではないと判断した連合国側の姿勢によるところが大きくかかわっています。

アメリカ参戦

 一次大戦開戦以来、戦場でないアメリカは連合国向け軍需ビジネスで急速に経済成長しつつありました。さらに欧州各国が戦火で生産力低下に喘ぐのを他所に、軍需特需の後押しによってアメリカ資本家たちの発言力は日増しに強くなっていきます。ただアメリカ連邦政府は外国のイザコザに手を出さないモンロー主義を重んじていたので、政府レベルの外交問題には発展しないよう注意が払われていました。

 ですが、ドイツ軍潜水艦による無制限潜水艦作戦によってアメリカ人が乗船する一般客船が度々沈没すると、資本家だけでなく民衆からも連合国としての参戦を望む声が湧き上がり、アメリカは4月3日にドイツへ宣戦布告します。1916年度末に準備された講和が不発に終わっただけでなくドイツ側の秘密電報問題も災いして、アメリカ連邦政府は国民の声を止めることが出来なかったのです。南北戦争の終戦以来、実施されていなかった徴兵制度も復活させて陸上戦力10万しか持っていなかったアメリカ軍は1年足らずで180万人もの大規模軍隊へと成長します。

 アメリカ参戦を促したのは商売で大損したくないアメリカの資本家達による意向が強く働いただけでなく、中断期間ことあれ無制限潜水艦作戦を止めないドイツ軍の態度に国民が怒り狂った点が大きい訳で、アメリカ連邦政府は必ずしも積極的に参戦する方針ではありませんでした。しかし世界の覇者イギリスの国力低下を睨んだ資本家達の狙い通り戦後、大量の貸付金を回収したアメリカは新たな世界の覇者として君臨することとなります。

パッシェンデール(第三次イーペル)の戦い

戦前のパッシェンデール(上図)
戦後のパッシェンデール(下図)
※Wikipediaより

 アメリカの工業力を後ろ盾につけた連合軍は戦車や飛行機の大量受注を開始しました。西部戦線ではニヴェル攻勢によるフランス軍内の反乱により、指揮主導権がイギリス軍へ移って激戦地イーペルへの独自攻勢が計画されます。これはドイツ軍潜水艦の母港となっているベルギー・オーステンデを抑えるのが狙いで、前哨戦のメッシーナの戦いによってイーペル南東部の丘陵地帯を占領したイギリス軍は7月31日より本攻勢に出ます。

 対するドイツ軍は横一線ではなく拠点を散文させた塹壕を掘っており、進行するイギリス軍に対して新型毒ガス・マスタードガスを始めて使用して攻勢計画を頓挫させました。イギリス軍は9月に入ると小刻みな砲撃と突撃を繰り返す戦法に切り替えて再起を図るも、泥の地面を進む作戦になり前進距離に似つかない多くの犠牲を払い続けて攻勢計画の破綻は明白となります。引くに引けない状況に陥ったイギリス軍はせめてもの奪取地点として、丘陵地帯北部のパッシェンデールに目標を変更してカナダ植民地軍を先頭に再度進軍を開始。パッシェンデール攻略に成功した一方で連合軍全体で45万人近くの死傷者を出し、イギリス本国から満足な増援が送られなくなる事態を招きました。

 パッシェンデールは後述するドイツ軍の春季攻勢時にわずか3日で奪い返され、イギリス軍が5ヵ月かけて攻略した際に払われたおびただしい数の犠牲が無駄となります。こうしてイギリス軍もフランス軍と同様いたずらに兵を犠牲にする作戦を実施できなくなったため、アメリカからの援助に依存する状況が連合軍に広がることとなります。

カンブレーの戦い

カンブレーの戦いの前線図
青点線が攻勢開始時、赤線が攻勢終了時の前線
※Wikipediaより

 英仏両軍が失策を重ねる裏でドイツ軍は強固なジークフリート線の防衛体制強化に着手します。他方、兵士の士気低下を憂慮した英仏両軍は採用されて間もない音響観測を用いて、ジークフリート線の補給拠点カンブレー攻略を11月20日から開始します。戦場で常態化されていた準備砲撃のない奇襲にドイツ陣営は度肝を抜かれました。

 戦闘機や戦車が大量に導入されたことに加えて音響観測による精密砲撃はドイツ軍を苦しめ、ジークフリート線が易々と突破される予想外の事態に陥りました。それでもドイツ軍は連合軍の投入戦車437両のうち180両を初日で戦線離脱させ、翌日からの反撃では増援なきイギリス軍を追い込んで喪失陣地を取り戻していきます。さらに防御が手薄な南側でガス弾を放った後に敵陣地の弱点を突く浸透戦術によって戦線突破に成功、連合陣営は総撤退を余儀なくされました。

 一次大戦を通して開発された兵器や戦法の有用性が確認されたカンブレーの戦いは、両軍が戦争勝利の要とする方針を固める重要な転換点となり、翌年の春季攻勢にも多大な影響を与えました。ただ、ドイツ軍参謀本部は浸透戦術の成功によって戦車による防衛ライン突破を甘く見立てることにあり、翌年アメリカによる大量の戦車投入に太刀打ちできない事態を招きました。

西部戦線1918

 戦車や戦闘機に望みを賭ける英仏軍、浸透戦術による新戦術に希望を見出したドイツ軍。両陣営の勝利への目論見は奇しくもアメリカの工業力を味方につけた連合軍により、ドイツ側の人海戦術論を打破する形で終結することになりました。大規模攻勢を先行したドイツ軍の敗北は19世紀からの続く伝統的戦術に終止符を打ち、工業生産物による大量破壊兵器が戦術の主役となる時代の幕開けを告げたのです。

春季攻勢

カイザー・ヴィルヘルム砲の模型
※Wikipediaより

 ロシア革命によるソビエト体制が樹立された1917年末、ドイツ軍はそれまで東部戦線に回していた兵員を西部へ動員する大攻勢を画策します。すでにアメリカ参戦が表明されて半年以上が経過したため、ドイツ軍は一度しかない数的優位となる最大の好機に大戦の命運を委ねる決断をしたのです。

 そして1918年3月21日にドイツ軍は戦車、戦闘機、携帯できるサブマシンガンなどを導入してイギリス軍防衛線へ襲い掛かりました。100km以上離れた位置からでも目標地点へ砲撃できるカイザー・ヴィルヘルム砲によるパリ攻撃も実施され、連合国の心理状態を揺さぶります。連合陣営は前年のわだかまりから全体統率が取れておらず、イギリス軍が単独でベルギー北部に兵員を増強したためベルギー南部の守りが手薄になっていました。この目に見える境地的な弱体化をドイツ軍は逃さず攻勢したため、イギリス軍は過去の戦いで占領した地域を簡単に奪い返されてしまします。あまりにも急激なドイツ軍の進軍はイギリス軍を麻痺させて物資を放置するなど前線兵士の判断も曖昧にさせますが、不幸中の幸いか食糧不足にあえぐドイツ軍は占領した街々で足を止めたので連合軍は体制を立て直す時間を得ました。

 結局のところ補給が間に合わなかったドイツ軍の春季攻勢は目論見通りにいかず、5月には恐れていたアメリカ軍が西部戦線に入ります。マルヌ河に到達してパリの80km先までに近づいたドイツ軍師団もありましたが、アメリカで生産された大量の戦車によって西部戦線各地で戦力均衡が崩れ、9月ムーズ・アルゴンヌ攻勢では最前線からの撤退を余儀なくされました。さらに、バルカン半島に駐留していた連合軍が同盟国ブルガリアを撃破の末に降伏させ、死に体だったオーストリアも続いて降伏しました。

終戦

 これ以上の戦闘継続は困難だと判断した参謀本部は政治家たちに和平交渉を委託して11月11日午前11時、フランス・コンピエーニュの森にて休戦協定が成立して4年以上続いた第一次世界大戦は終結。帝政ドイツも11月3日から発生したドイツ革命によって休戦協定後の11月18日に崩壊しました。

 物量勝負となった大戦最終盤は両軍とも工業生産物を戦線へ数多く導入したものの、あらゆる面で追い詰められたドイツは旧来の歩兵戦術に依存せざるを得ない状況に立たされた末。絶望的な国内情勢を残して戦争を終えました。こうして1919年6月28日のヴェルサイユ条約による取り決めでドイツは当時の国家予算20年分の賠償金を支払うことになり、第二次世界大戦につながるドイツ国民の不満を増幅させる主要因が生み出されたのです。

仏独の傷 未だ癒えず

 その後ドイツはナチス時代の賠償金支払い拒否や東西分裂時代の支払い免除期間を経て、2010年に対米債務の支払いを終えました。他の連合国向け戦時賠償は2020年までに完済する見込みですが、21世紀に入ってもドイツが賠償金支払いを続けている事実は欧米諸国に根強い当事者意識を植え付けているのです。また、フランスのソンムやヴェルダンなど西部戦線の激戦地は今でも不発弾や毒ガスが残っており、人類史に残る過ちとして国際社会に共有されているのです。

 追悼式典でフランスのエマニュエル・マクロン大統領が演説にて「悪魔が再び目覚めつつある」と述べたのは、一次大戦前と同じような国粋主義が増長している国際社会に警告を促す意味が込められていることは言うまでもありません。100年前とは違い世界の中心がロシアや中国、アメリカへ移った今日。欧州各国が過去の反省を糧に大戦へ至る歩みを止められるかが平和な国際関係を次の100年につないでいく上でも重要となるはずです。