第一次世界大戦の戦況 ~東部戦線編~

 第一次世界大戦における西部戦線の戦いがアメリカを世界の盟主に押し上げた戦争なら、東部戦線における戦いは社会主義国家ソビエトを生み出した戦争です。過激な政治団体だったボリシェヴィキの指導者レーニンによって導かれた世界初の社会主義国家樹立はなぜ成功したのか。ドイツ、オーストリア、ロシアの思惑が絡んだ東部戦線に着目すると共産革命につながる道筋を読み解けます。

開戦前夜の王朝衰退

 栄華を長く極めてきたヨーロッパの各王朝は19世紀に入ると市民意識の広まりで次第に衰退してきます。特に神聖ローマ帝国体制が崩壊したオーストリア・ハプスブルク家、奴隷同然の農奴制度を国民に強いるロシア・ロマノフ王朝への風当たりは強く、内政に不安を抱える状況下で一次大戦へ突入していきます。

 オーストリアのハプスブルク家はヨーロッパ世界の盟主でした。13世紀に中央ヨーロッパ諸国をまとめる神聖ローマ皇帝の地位にはじめて就くと影響力を拡大し、18世紀には台頭するプロイセン王国と共に神聖ローマ帝国内の二大勢力として栄華を誇ります。しかし、フランス革命後のナポレオン戦争によって神聖ローマ体制が崩壊しただけでなく、普墺戦争におけるプロイセン勝利はハプスブルク家の権威を失墜させました。さらに統治下に治めていたハンガリー領内の反発から独立自治を認めて二重帝国体制を築き、オーストリアは20世紀に入るとプロイセンを中心とする連合国家ドイツへ依存しなくては国力低下を避けられなくなります。

 ロシアも20世紀に入る頃にはロマノフ王朝打倒の動きが加速していました。貴族に絶対的な権威を持たせて農民を縛り付ける農奴制を全土へ根付かせ、搾取することでロシアは大国にのし上がったものの、ナポレオン戦争により貴族と農奴出身者が軍隊で交流すると貧困の現実が共有され民衆反乱が増加しました。農奴制を廃止しても既得権益層が権力を牛耳ったためロシア第一革命が発生、民衆指導者たちが逮捕・亡命する事態を招き国民はロマノフ王朝に対して不信感を増長させます。これに並行してレーニンを中心とする共産主義政治団体ボリシェヴィキはロシア国内で着実に地盤を固め、ロシア第一革命が終結すると次の好機をうかがっていました。

 そんな折、オーストリア皇太子夫妻が殺害されるサラエボ事件が発生。1914年7月28日にオーストリアがセルビアへ宣戦布告すると、ロシアも庇護下とするセルビアを防衛する名目で軍隊を派遣します。ただ、オーストリアもロシアも当時の鉄道輸送事情から少数の部分動員ではなく大軍を動かす総動員を決行せざるを得ず、両国の動きは周辺各国へ戦火を拡大する火種となったのです。

東部戦線1914

 同じドイツ人国家としてオーストリアを全面支援する姿勢を明確にしていたドイツは、開戦して間もなく東西の国境へ向けて軍を派遣して臨戦態勢に入りました。ロシアは総動員した兵士たちのモラルの低さに頭を抱えており、先行してドイツ領内に進軍しながらもタンネンベルクやマズール湖で連敗しました。一方でガリツィア方面に展開したオーストリア軍はロシア軍に敗北を続けてカルパティア山脈以西へ撤退します。

タンネンベルクの戦い

第一次マズーリ湖攻勢侵攻図
赤矢印がドイツ軍、青矢印がロシア軍の動きを表す
※Wikipediaより

 開戦して間もなく、ドイツ軍はフランスを先に抑えるシュリーフェンプランに沿って軍を展開します。これは、欧州一練度の低い軍隊と呼ばれていたロシア軍がすぐに総動員できないと仮定しての侵攻計画で、ドイツ軍が計画を完遂するためにはロシア軍の初動の遅さに依存しなくてはなりませんでした。

 ですがロシア軍は予想に反して1914年8月中旬にはマズーリ湖を南北に分かれてドイツ領内へ進軍、後から到着するであろうドイツ軍を挟み撃ちにしようと画策します。敵方の速い動きにドイツは動揺しましたがシュタルペーネンでの緒戦に勝利すると勢いづき、鉄道輸送による人員の高速移動を駆使して南に展開したロシア軍をせん滅。ロシア軍の無線内容を解読していたことも相まってドイツ軍は終始戦闘を優勢に運び、戦力差2倍のロシア軍をドイツ国境の外へ追い払いました。この第一次マズーリ湖攻勢と呼ばれる奇襲によって先んじて動いたにも関わらず、ロシア軍は派遣した2軍団の1つが崩壊する大損害を被ることになります。

 西部戦線におけるフランス軍の逆襲を受ける裏での大勝利はドイツ国民を熱狂させ、タンネンベルクにおける一連の戦いを勝利へ導いた指揮官ヒンデンブルクとルーデンドルフの2人は英雄と称えられました。そして敗北したロシア軍は戦線の立て直しを迫られ、領土内で守勢に回る苦しい戦いを余儀なくされます。

ガリツィアでの戦闘

 ロシア軍がドイツ領へ入った同じ時期にオーストリア軍も北に位置するワルシャワを目指して進み、待ち構えていたロシア軍をなぎ倒していました。ただ、オーストリア軍参謀司令部の二転三転する調整によって動員が遅れ、カルパティア山脈方面を進んでいたロシア軍精鋭部隊が攻勢に転ずると各地で敗走します。

 9月になるとカルパティア山脈東北部のオーストリア領はロシア軍に蹂躙され、プシェムィシル要塞で孤軍奮闘する部隊を除きオーストリア軍は約40万人の被害を出してガリツィアから撤退します。開戦のキッカケを作ったオーストリアのあまりの弱さから、ドイツ軍も10月に独自でワルシャワ奪取に動き出しますがヴィスワ河で敗戦。補給が間に合わないロシア側の都合に助けられたもののオーストリア軍は序盤の勢いを完全に失い、ドイツ軍から増援なしでは攻勢に踏み込めなくなりました。

 初手の動員の遅さだけでなく増援が続いたロシア軍の勢いを止められず、わずか4ヵ月でオーストリア軍はドイツ軍に助けを乞わねば自国領土を維持できない状況に陥ります。にも関わらずオーストリア軍は孤立するプシェムィシル要塞で戦う友軍を救うため、愚行とも言える作戦を決行しました。

東部戦線1915

 タンネンベルクでの勝利によってドイツ軍が勢いづく一方、オーストリア軍はガリツィアでの攻勢で甚大な被害を受けました。単独でのガリツィア奪還が叶わないと踏んだオーストリアは次第にドイツへ依存しつつ東部戦線を戦うことになります。対して短期間で戦争が終結すると踏んでいたロシアは補給が間に合わず、ゴルリッツ=タルヌス攻勢をキッカケに大撤退へ追い込まれました。

プシェムィシル要塞

戦闘後のプシェムィシル要塞
※Wikipediaより

 先手を取りながらも立て続けに敗北を重ねたオーストリアはカルパティア山脈東北部の領土を事実上放棄、ロシア軍に包囲されたプシェムィシル要塞の同胞を救うべく年が明けて間もなく山越え奇襲を決行しました。しかし、カルパティア山脈の冬は厳しく行軍に参加した兵士のうち約80万人が死傷、ガリツィアにおける前年の戦闘と比べて倍の戦力を戦わずして失います。

 多くの人員が割かれたカルパティア山脈の冬季行軍にはドイツ軍からの増援部隊も交じっており、愚答と言うほかない攻勢失敗に以後ドイツ軍はオーストリア軍への支援を渋るようになりました。さらに、攻撃対象のロシア軍ですらオーストリア軍の山越えを警戒しておらず、プシェムィシル要塞のオーストリア軍は1915年3月22日に降伏しました。予想通り兵士たちは食料難でやせ細っていましたが将校たちがプシェムィシル要塞近くの都市にて、社交界で接待を受けていた事実が判明するとオーストリア国内で大きく問題視されます。

 無謀な冬季行軍による多大な犠牲に加えて要塞における格差が露呈したプシェムィシル要塞におけるオーストリア軍の動きは、ハプスブルク家を頂点とした政治腐敗を象徴する現象としてドイツ側に受け取られ、同盟国内の連携に大きな不和が生じました。戦わずして失った兵の数もあまり多く、一次大戦における最大の愚行と後世呼ばれることになります。

ゴルリッツ=タルヌス攻勢と大撤退

ロシアの大撤退を進行図
東側の青点線が最終撤退ライン
※Wikipediaより

 カルパティア山脈で無駄な犠牲が払われて間もなくドイツ軍は再びワルシャワ方面へ向けた攻勢を画策、冬場で警戒が薄れていたロシア軍の不意を突いて第二次マズーリ湖攻勢に成功します。ただ、オーストリアのプシェムィシル要塞での失策から東部戦線におけるドイツ軍の動きは慎重さを増しました。

 というのも、ドイツ軍内部の派閥争いで西部と東部どちらに注力するかで揉めていました。しかし春に入って連合軍がドイツ陣地へ攻撃を繰り返しても突破できなかったため、ドイツ軍参謀本部は東部戦線で攻勢へ出る方針を固めます。ガリツィアを占領したロシア軍は攻勢の動きを掴みながらも、ドイツ軍ではなく弱体化したオーストリア軍を中心に攻めてくると踏んで防衛線の警戒を強化しませんでした。そして5月2日、ガリツィアのゴルリッツからタルヌスにかけて同盟軍は進撃を開始、破竹の勢いでロシア軍を潰走させてオーストリアが失っていたガリツィアをほぼ取り戻します。

 南部での攻勢に成功したドイツ軍は次にワルシャワへ侵攻しますが、またもや参謀本部内で意見が対立したまま攻勢を開始します。とは言え敗北を続けていたロシア軍は押されるがままワルシャワを放棄して、9月には勢力圏だったポーランド地域全てを失うまでの大撤退を余儀なくされました。イザコザを抱えていたドイツ軍も敵方に50万人以上の損害を与えた大攻勢の成功によって一様に落ち着き、翌年の西部戦線のヴェルダン要塞攻略に向けた準備を優先させたので冬場に入った東部戦線の作戦行動は一時中断されます。

 オーストリア軍の惨敗を取り戻すかの如く成功したゴルリッツ=タルヌス攻勢はロシア軍に甚大な被害を与え、ロシアにポーランド統治地域を放棄させる決定的な出来事になりました。ただ度重なる敗戦は帝政ロシアによる民族粛清を実施するキッカケとなり、ドイツへの内通者抹殺を理由にロシア人以外の罪のない一般人が虐殺される事態を招きました。

東部戦線1916

 ゴルリッツ=タルヌス攻勢によってロシア軍は大撤退を余儀なくされますが、派閥に分かれていたロシア軍内部は統率が乱れた状態での戦闘を春先まで続けます。しかし、ロシア皇帝ニコライ2世の名の下で招集された緊急会合の場で提案された斬新な戦術がロシア軍の勢いを復活させ、オーストリア軍粉砕という大成果を挙げることになりました。

ブルシーロフ攻勢

ブルシーロフ攻勢の進行図
左図が侵攻計画、右図が侵攻後の東部戦線
※Wikipediaより

 大撤退に伴う大敗によってロシアは開戦から1915年末までの間に200万人は下らない犠牲者を出しました。ですが、西部戦線の拮抗を打破できないフランスからの要請で派遣軍を送ったことでロシア本国の兵員数は減少、セルビアへ送った救援隊はオーストリア軍に破れ、戦線突破を狙ったナロッチ湖攻勢にも失敗します。

 これ以上の兵員消耗を避けたいロシア軍は1916年4月に緊急会合を開き、戦線南西の総司令官アレクセイ・ブルシーロフが横幅480kmにも及ぶ攻勢を提案します。大量の兵を一点集中突破させる人海戦術が主流の時代に示された奇策に反対論は根強く挙がりましたが、敵塹壕の前まで気付かれることなく忍び寄り少人数で奇襲する突撃部隊によって敵を制圧する考えは、戦力を他国へ抜き取られていく事情を考えれば妥当な戦略でもあったためロシア軍参謀本部は作戦を承認します。他方、オーストリア軍はイタリア軍との戦闘を優勢に進めておりガリツィア方面の配慮が薄れつつありました。

 そして6月4日ロシア軍は東部戦線南部より集中砲火を開始、砲撃を受けているオーストリア軍はドイツ軍の援助で造られた強化塹壕の中で兵士は無事だったものの、砲撃が止んだ瞬間に突入してきたロシア軍突撃部隊の奇襲を前に捕虜となる兵が続出。オーストリア軍は150万人もの戦力を失いドイツ軍は西部戦線のヴェルダン襲撃を諦めざるを得なくなります。ロシア軍は狙い通りに敵の戦力分散に成功しましたが長大となった戦線の補給が間に合わなくなり、ルーマニア参戦による東部戦線の混乱もありロシア軍は9月末までに攻勢を終了させました。

 前年からの敗北色を一蹴したブルシーロフ攻勢の成功はオーストリア軍を瓦解寸前まで追い込み、ドイツ軍の兵員配置にも多大な影響を与える一大攻勢となりました。ですが、ブルシーロフによって考案された突撃部隊による奇襲作戦は敵国ドイツの新戦法、浸透戦術が提案される遠因となり後にロシア軍を苦しめることになるのです。

東部戦線1917

 ブルシーロフが提案した奇襲戦法によってロシア軍は体制を立て直しただけでなく、開戦以来睨み合ってきたオーストリア軍壊滅に追い込みました。ですが、ドイツが送り込んだ共産主義者レーニンによってロシアは戦争どころではなくなり、革命による混乱は帝政崩壊と新国家ソビエトを誕生させます。

ロシア2月革命

 戦争の開戦以来ロシア国内では深刻な食糧難でパンは配給制となり市民生活を圧迫していました。さらに大撤退を機に皇帝ニコライ2世が戦地へ赴くことになり、代わりに執政を務めた皇后アレクサンドラはドイツ出身だったことも含めて戦前から支持されておらず、政治に対する国民の不満は爆発寸前となっていました。

 そんな時流だった1917年2月23日、国際婦人デーに合わせた女性労働者のデモが暴動にまで発展したためロシア軍は武力で鎮圧しようと動きます。しかし兵士たちの多くはデモ参加者に味方して命令を下す士官を殺害しただけでなく、ロシア議会(ドゥーマ)に権力掌握を願い出るなど首都ペトログラード(現:サンクトペテルブルク)は混乱に陥りました。一刻の猶予もない状況下でドゥーマ議長ミハイル・ロジャンコは市民をまとめつつあった共産主義者達の協力を仰ぎ、ドゥーマ体制を引き継ぐ臨時政府と共産主義者の評議会(ソビエト)が分散してロシアの権力を握る新体制が発足します。

 こうして二重体制下による安定した政治運営に期待した人々でしたが、ドイツによる謀略によってレーニンが封印列車でペトログラードに入るとロシア国内は再び混乱に陥り、ボリシェヴィキがソビエト内の他の共産主義政党を抑えて急速に勢力を拡大していくのです。

ケレンスキー攻勢とコルニーロフ反乱

臨時政府とソビエトを取り持った
アレクサンドル・ケレンスキー
※Wikipediaより

 帰国して間もなくレーニンは臨時政府打倒を掲げる「4月のテーゼ」を発表、ボリシェヴィキが示した即時停戦論は民衆の支持を集めて次第に臨時政府を圧迫していきます。臨時政府とソビエトの取りまとめ役だったアレクサンドル・ケレンスキーは事態を収拾できず苦慮しますが、イギリスから戦争に勝利すれば長年領有権を争っていたダーダネルス海峡を譲る提案を受けて、ケレンスキーは東部戦線の軍に攻勢を要請しました。

 ロシア軍は7月にかけて進撃を開始しましたが革命の影響は兵士にも影響を与えており、2月革命の余波で脱走兵が200万人を超えた状況での戦いを余儀なくされます。さらに攻撃命令を拒否する兵士が爆発的に増えただけでなく、同盟軍は前年に手痛くやられた突撃部隊による奇襲戦法を攻略して攻勢は失敗。挙句、東部戦線の影響はペトログラードにも波及して軍部隊が武装デモを実施するなど臨時政府の立場は増して悪化しました。これに乗じてボリシェヴィキは政府打倒を煽り「7月蜂起」を実施するも、臨時政府に味方するロシア軍によって暴動は鎮静化されレーニンは一時フィンランドへ逃れます。

 ただし7月蜂起によってボリシェヴィキは急速に支持を伸ばし、反比例するかの様に臨時政府はあらゆる立場の人間から支持を失っていきました。事態を打開するためケレンスキーは新たなロシア軍総司令官としてラーヴル・コルニーロフを指名、軍内部の引き締めを図りますが上手くいきません。しかもコルニーロフは何者かの差し金による謀略策によって首都への進軍を始めたため、臨時政府は投獄していたボリシェヴィキたちを釈放して赤衛隊を組織して対抗。迫るコルニーロフ軍は懐柔策ですんなり崩壊したため、コルニーロフ反乱と呼ばれるクーデター騒動は血を流すことなく終わりました。

 イギリスからの重要拠点譲渡という餌に釣られたケレンスキーは判断を見誤り、東部戦線のロシア軍を事実上崩壊へ導きました。加えて、判然としない謎の交渉人による情報かく乱によってコルニーロフは国民より逆賊の汚名を着せられたのです。臨時政府による失策の数々は過激なボリシェヴィキを増長させ、他の共産主義政党をソビエトから排他する主要因となり10月革命を引き起こすのです。

ロシア10月革命

 コルニーロフ反乱によってボリシェヴィキに従順な赤衛隊が結成された影響は大きく、解放されたボリシェヴィキ指導者たちは武力による権力奪取も辞さない姿勢を示しました。さらに一般市民の支持者だけでなく、戦場に展開していたロシア軍各部隊もボリシェヴィキ支持を表明したため臨時政府は虫の息となります。

 ケレンスキーは最後の望みを託して婦人大隊や士官学校生徒を集めてボリシェヴィキの拠点を襲撃するも、逆に赤衛隊の大反撃に遭いペトログラード市内全域を掌握され臨時政府は崩壊しました。その後、首都を抜け出したケレンスキーはドン・コサックをはじめとする部隊の協力を得て再攻勢へ出るも敗北、フランスへ亡命して2度とロシアの地へ足を踏み入れることはありませんでした。こうして脅威となる対抗勢力を排除したボリシェヴィキは世界初の社会主義国家・ロシア社会主義連邦ソビエト共和国の建国を宣言しました。

 臨時政府による政治体制が国民の失望を買い続けた結果、ボリシェヴィキは念願の社会主義国家建国を実現したのです。とは言え親ロシア臨時政府派による抵抗は激しく、成立間もないソビエト政権は早急にドイツ軍との停戦交渉に入りました。また臨時政府の崩壊はロシア占領下にあった地域における内戦を引き起こし、ソビエトとドイツの講和交渉にも大きな影響を与えます。

リガ攻略

 ロシアが革命で混乱する最中、ドイツ軍はオスカー・フーチェル将軍が提案した浸透作戦を初めて大規模な実戦で決行しました。浸透戦術は毒ガスで放ち、ロシア軍のブルシーロフ将軍が提案した少人数による弱点突破を行い、敵の指揮所をはじめとする重要拠点をいち早く抑えて、塹壕などに残った歩兵を火炎消火器などで追い詰める。一次大戦における数々の反省を盛り込んだ画期的な戦術でした。

 そしてドイツ軍は浸透戦術の実験場所を守りが固い都市リガに定めて作戦を始めると、最初の毒ガス砲撃終了時点で反撃はなくドイツ軍は悠々とリガへ侵入。わずか4日の戦闘で士気の低下が著しいロシア軍は敗走しました。難攻不落と謳われていたリガを攻略した浸透戦術はその後ドイツ軍の切り札として重宝され、膠着状態となっていたイタリア戦線のオーストリア軍を救い、西部戦線における1918年春季攻勢でも運用されました。

 すでにロシア革命によって東部戦線における拠点占領は重要視されていませんでしたが、大規模な浸透戦術の成功はドイツ軍を西部戦線における最終攻勢を決断させる要因の1つとなりました。東部戦線全体の勢力に影響を与える戦いではなくとも、リガでの戦闘はドイツ軍幹部たちが納得する成功を収めたのです。

東部戦線1918

 ソビエト政府が樹立され、東部戦線の潮目は一気に変化して双方とも講和へ動き出します。しかしながら国内を掌握しきれていないソビエトの立場は弱く、ウクライナで発生した内戦によってドイツとの講和は一度立ち消えました。他方オーストリアはバルカン半島からの連合軍襲来を恐れて降伏、国家分裂という末路を迎えます。

ブレスト=リトフスク条約

11日戦争でソビエトが放棄した領土
※Wikipediaより

 ロシア臨時政府を打倒したボリシェヴィキはすぐさま一次大戦全参戦国に講和を持ち掛け、不安定な国内情勢を収めようと動き出しました。すでに穀倉地帯のウクライナでは内戦が発生しておりソビエト政権にとって内部統制は一刻を争いました。西部戦線に人員を割きたいドイツはソビエトの意向を聞き入れ、ブレスト=リトフスクにて講和会議が開始されました。

 早速両国は申し合わせの上で東部戦線のドイツ軍を西部戦線へ動員しないことを講和条件に盛り込みながらも、必要な部隊の移動を事前に済ませておく裏工作に乗り出して連合国から非難を浴びます。ソビエトは連合国側の抗議を無視して同盟国との講和交渉を続けますが、親ロシア臨時政府派のウクライナ中央ラーダ政府がドイツ軍の内戦支援を願い出ると状況は一変、ソビエト政府が講和に署名しないベレスチャ条約が1918年2月9日に先行して発行されました。業を煮やしたソビエトは講和交渉を破棄しますが、中央ラーダ政府の支援に回ったドイツ軍は東部戦線を超えて進撃を始めてペトログラードへ迫り、ソビエト政府はモスクワへの遷都を余儀なくされました。

 11日戦争と呼ばれる攻勢に肝を冷やしたソビエトは急ぎ講和再開を打診し、1918年3月3日にブレスト=リトフスク条約が発効されソビエトは一次大戦から離脱しました。しかし、11日戦争によって失った領地の多くでは国家樹立を目指す運動が活発化したため、ソビエトは一次大戦の講和が成立しても内戦での戦闘を続けることになります。

オーストリア降伏

 ブレスト=リトフスク条約の成立によって状況が改善したかに見えたオーストリア軍でしたが、イタリア戦線での兵員消耗は凄まじく再建不可能に近い状況に陥っていました。バルカン半島で粘っていた味方のブルガリア軍がギリシャ・サロニカの連合軍に撃破されると、即座にブルガリアは降伏する準備を開始します。

 ブルガリアの降伏によってオーストリアはバルカン半島より連合軍に攻められる可能性が高まり、ドイツも休戦を模索している状況からオーストリアの敗戦は不可避となりました。それだけでなく北部ボヘミヤ地方ではチェコ人とスロバキア人が結託して独立運動を活発化、10月18日にチェコスロバキア暫定政府が設立され10日後にオーストリアからの独立を宣言します。外部だけでなく内政統治すら行き届かなくなったオーストリアは連合国へ休戦要請を送り、11月4日に承認され一次大戦を離脱しました。こうして、人類史上に残る大戦を最初に始めた大国は敗戦国として終戦を迎えます。

 戦後、オーストリアを待ち構えていたのは国家分裂による領土の奪い合いでした。特にハンガリーは終戦直前に侵攻したルーマニアにトランシルヴァニアを占領され、チェコスロバキアからも伝統的に統治してきた北部地域を割譲せざるを得なくなります。ユーゴスラヴでは戦勝国セルビアを中心とするユーゴスラビア王国体制が成立し、20世紀末のバルカン紛争の火種が生み出されました。そして、ハプスブルク家の威光が失われたオーストリアは列強国ではなくなり社会主義を柔軟に取り入れる、親ドイツ国家に生まれ変わりました。

王朝の崩壊と社会主義の台頭

 ハプスブルク家とロマノフ王朝という統治者を失った東欧やバルカン世界では一次大戦後。ソビエトの後ろ盾で多くの社会主義政権が樹立され、第二次世界大戦後には両王朝の統治下にあった地域のほとんどが旧東側勢力下に組み込まれました。ボリシェヴィキが目指した共産主義の伝播が円滑に進んだのは、絶対王政による統治機構が失われた点が大きく関係しているのです。

 同時にボリシェヴィキの恐怖政治による統治システムは世界中に広まり、民主的な多様性をないがしろする独裁国家の誕生も促しました。今日でも旧東側諸国だった国々が恐怖政治の匂いを残した政治体制を築いているケースは珍しくありません。ただし、長年続いた絶対王政による統治へ人々の不満が溜まり続けていたのも事実で、仮に一次大戦によって共産主義が広まらずとも社会主義国家が生まれるのは時間の問題だったのでしょう。一次大戦は旧来の王朝を廃して、恐怖政治が産声を上げる戦争となったのです。