カシミールの特別自治権はく奪で対立深めるインドとパキスタン

 インドが実効支配しているジャンムー・カシミール州の自治権をはく奪した末に治安部隊を投入し、カシミール地方の領有権を争っているパキスタンが大きく反発しています。今年2月に発生したイスラム教徒による自爆テロで緊張感が高まって以来、インドとパキスタンのカシミールを巡る武力衝突がさらに激化するのではと国際社会が警戒しています。

イスラム弾圧を進めるインド

 カシミール地方は歴史的にイスラム教徒であるムスリム住民が多数派を占めながらも、第二次世界大戦後に発生した3度の印パ戦争を経てインド、パキスタン、中国が統治する地域に分割されました。特にインド統治下となったジャンムー・カシミール州ではインド憲法370条による特別自治権が認めながらも、中央政府からの圧力と反発する地元ムスリムとの対立はカールギル紛争などの武力衝突として幾度となく浮き彫りとなってきました。

 そうしたジャンムー・カシミール州内のムスリムが抱く鬱屈した気持ちがイスラム原理主義組織ジェイシモハメド(JeM)を生み出し、駐在するインド軍治安部隊などを標的としたテロが散発してきたのです。一方、インド中央政界で2014年にヒンドゥー至上主義を是とするインド人民党が政権与党となってから、ジャンムー・カシミール州内ではイスラム教徒を冷遇するようなデモ弾圧が増えていきました。すると2018年2月14日にJeMが関与した自爆テロによってインド軍兵士約40名が死亡する事件が発生。インド政府は即座に報復としてJeMの軍事拠点があるパキスタン統治地域の空爆を強行し、パキスタン側も戦闘機を出撃させてインド空軍の戦闘機2機を撃墜する軍事衝突が起こりました。双方はパキスタン軍が撃墜したインド軍機パイロットの身柄をすぐにインドへ戻すことで事態の鎮静化を図りましたが、インド人民党は同年5月に迫っていた国会選挙の広報材料として帰国したパイロットを英雄として称え、ヒンドゥー至上主義を国内で浸透させた末に改選された下院議席のうち単独過半数を確保する大勝利を収めます。

 政権基盤を盤石としたインド人民党のナレンドラ・モディ首相は選挙後、断続的に続く混乱を武力で鎮圧しようとジャンムー・カシミール州へ軍治安部隊を数十万人単位で投入しました。また、ジャンムー・カシミール州に滞在する外国人に退避勧告を出すだけでなく、電話やネットなどのインフラ網も停止させ、地元のイスラム系有力政治家には自宅軟禁を強要し、パキスタンへの併合かインドからの分離独立を訴えてきた現地ムスリム市民やJeMに対する弾圧に取り掛かっています。こうした地ならしと並行して、インド政府は憲法370条に記されているジャンムー・カシミール州の特別自治権をはく奪した末に中央政府直轄地とする方針を閣議で決定、2019年8月5日の発行された大統領令によって暫定的にジャンムー・カシミール州全域が封鎖される事態に陥りました。インド憲法370条は外交、防衛、財政、通信などの権限を中央政府に一任しながらも、ジャンムー・カシミール州独自の司法、立法、行政権を認めるだけでなく、他の州在住の人物がジャンムー・カシミール州内に財産物を所有することや在住を認めない法律で、地元ムスリムによる独立性の高い州政府運営を実現させてきた条文です。国会審議が済んでいないとはいえ、大統領令による迅速な合法化を狙うインド中央政府のやり口にカシミールのムスリムだけでなく、日々支援してきたパキスタン政府が強く反発したのです。

 多くの軍関係者を犠牲にした自爆デモをキッカケとして、インド中央政府はカシミールに住むイスラム教徒の心情を逆なでする自治権はく奪に乗り出しました。こと国会選挙の大勝によって、インド人民党は他国が統治する地域も含めたカシミール全域の自治確立を目標としてヒンドゥー至上主義者たちを煽っており、インドの国内世論も政府方針を支持する向きに傾きつつあります。

パキスタンの反発

 カシミール地域の統治均衡を維持していたインド憲法370条が事実上廃止されたことに、パキスタン国内では大きく反発する世論が沸き上がっています。パキスタン外務省も一連の動きに「違法な措置に対抗するため、すべての可能な選択肢を視野にいれる」と声明を発表し、早速インドに対する報復策を実施しています。

 パキスタン政府は8月7日にインドの駐パキスタン大使を国外追放する方針を固め、印パ二国間貿易を停止する方針を発表しました。それだけでなく、インド国境近くの主要都市ラホールから出ているインド行き列車の運行も一方的に運休を決定し、パキスタン国内でも親しまれているボリウッド映画の国内上映も禁止しました。JeMによる自爆テロ発生から穏健な態度を見せていたイムラン・カーン首相もジャンムー・カシミール州が封鎖される事態に堪忍袋の緒が切れたようで、8月11日にはSNS上で「ヒンドゥー至上主義のイデオロギーは、ナチスのアーリア人至上主義のように止まらない」と釘を刺し、「インドにおけるイスラム教徒の弾圧であり、最終的にはパキスタンを標的とするだろう」とインド中央政府の動向を激しく非難しています。すでにパキスタンは事態悪化に備えてアメリカのドナルド・トランプ大統領に仲裁のお願いをしており、トランプ大統領も「私に助けることができるなら喜んで仲裁役になる」と言明しています。

 カーン首相としては利害関係もある超大国アメリカに仲裁役を担ってもらい、南アジアの覇権国家であるインドとの全面戦争を回避したい考えがあるのは明らかですが、インド国内で迫害を受けているムスリムの現状に怒り心頭なのもまた事実です。国粋主義を流布するインド政府とは違い、パキスタン政府は事を穏便に済ませたいのが本音です。

国連安保理緊急会合の影に中国

 事を荒立てることを避けてきたパキスタンもジャンムー・カシミール州のムスリム弾圧に激高して対インド制裁策を次々と実行していますが、同時にパキスタンは国連へ安全保障理事会の開催を要請。カシミール領有問題で結託する中国も支持に回って8月16日に非公開会合が開かれました。

 インドもパキスタンも核保有国なので、ともすれば核戦争にも発展しかねない事態に国際社会も警戒感を強めています。会合の実施要請に先駆けて国連のアントニオ・グテーレス事務総長は「カシミール地方の最終的な地位については、当事者が選ぶ平和的な手段で解決することを定めた両国の合意がある」として、印パ戦争の停戦協定で設定された管理ラインを遵守しつつ両国に自制した和平交渉をするよう促しています。そして、インドとパキスタン共に一帯一路構想で重要な相手でもある中国はパキスタン側に助力する動きを見せています。中国もカシミールの一部を実効支配する立場ではありますが南アジアの大国インドの影響力拡大を強く警戒しており、一帯一路構想でパキスタンが協力的なこともあってヒンドゥー至上主義に基づくインド政府の行動に苦言を呈してきました。パキスタンのマヘムード・クレシ外相が自ら北京へ足を運んで中国の王毅外相と対応策を話し合った様からも、パキスタンは中国と連携してインド政府によるムスリム弾圧を人権侵害として訴え、戦争とならないよう穏便に事態収拾を図りたい狙いもうかがえます。

 とはいえ、ジャンムー・カシミール州に軍治安部隊を大挙して派遣している現状は変わらないことから、カーン首相も8月14日のパキスタン独立記念日演説にて「パキスタン軍はインドのいかなる侵略行為にも対応できる準備をしている」と発言しており、国連での和平交渉と並行してパキスタンは中国の支えを得ていざとなれば武力行動も辞さない構えを見せているのも事実です。

カシミール民の想いは尊重されず

 カーン首相はSNS上だけでなくパキスタン独立記念日演説の場でも「ジャンムー・カシミール州で起きていることはナチスを思い起こさせる」と言及しており、インド人民党政府の強引なジャンムー・カシミール州の自治権はく奪に怒りを顕わにしています。対して、インドのモディ首相は8月8日の演説にて「テロリズムと分断主義を排除できる」との言葉を発しており、立場の隔たりは容易に縮められそうではありません。

 当のカシミールもインド軍とパキスタン軍による銃撃戦で死亡者が発生する事態に陥っており、国連安保理の和平交渉がまとまらなければ本格的に軍事衝突が起きても不思議ではありません。一方、ジャンムー・カシミール州の住民はインド軍治安部隊によって生活域が封鎖され、テロ行為でもしないと自治権回復を訴えられない状況となっています。カシミールを巡る国家間対立に注目が集まりがちですが、混沌とする情勢に最も苦心しているのは言うまでもなく地元カシミール住民なのです。