第一次世界大戦の戦況 ~オスマン帝国編~

 毎年11月11日は第一次世界大戦の終戦日としてヨーロッパ諸国を中心に記念式典が催されますが、トルコでもオスマン帝国体制が滅びるキッカケとなった歴史的な出来事として話題に挙げられます。一方、中東世界を治めていたオスマン帝国の崩壊は現代に続く不安定な中東情勢を生んだ主要因というのは紛れもない事実です。

瀕死の病人

 13世紀末に成立したオスマン帝国は中世キリスト世界の脅威とされ、17世紀にはバルカン半島を掌握して西欧世界への領土拡大を伺っていました。しかし、増長したロシア帝国ロマノフ王朝が権力を付けると欧州方面の影響力を失い、19世紀には占領下だったギリシャやエジプトで独立戦争が発生すると西欧諸国から多額の戦時国債を抱える事態を招き、財政事情がひっ迫したオスマン帝国は「瀕死の病人」と謳われる様になりました。

 急速な欧州化政策「タンジマート」を実施するなどオスマン帝国も内政面で西欧諸国に追いつこうと改革が進められていましたが、クリミア戦争に辛くも勝利した代償として西欧列強諸国による半植民地化政策を受け入れざるを得なくなり、1873年に終戦した普仏戦争後の大恐慌からオスマン帝国は財政破綻しました。事態を重く見た欧州各国はオスマン帝国領内に多額の投資をしながらも、返済期限切れ国債の返済を催促させる「オスマン債務管理局」を設置。オスマン帝国内政も近代法治国家改革が推進されながらも挫折して旧態依存の専制体制が維持される状況となりましたが、西欧式の教育を受けた世代が「青年トルコ党」を結成して1908年に「青年トルコ革命」を成功させ立憲体制を打ち立てました。しかし、かつての威光を失ったオスマン帝国はバルカン半島で抑えていた諸民族の独立意識を払しょくできず、オーストラリア=ハンガリー帝国にボスニア=ヘルツェゴビナを割譲するなど急速なバルカン半島領の放棄を余儀なくされます。

 こうした流れから、オスマン帝国による統治で安定していたバルカン半島の治安は劇的に悪化します。二度のバルカン戦争を経てオスマン帝国はバルカン半島領のほとんどを失い、諸民族による独立国家の建国が相次ぎました。北アフリカ方面の権益も1912年に終戦した伊土戦争からイタリアにリビアを奪われ、帝政オスマンの崩壊は秒読み段階に入りました。統治領土の喪失による国民の失望は次第に青年トルコ革命を成功させた青年トルコ党への期待を集めることになり、軍人のイスマイル・エンヴェルを中心とした三頭軍事政権が1913年に樹立されました。1914年7月28日に第一次世界大戦が開戦すると、オスマン債務管理局の返済に絡んで親英派と親独派の政治対立が浮き彫りとなりましたが、同年11月11日に陸軍大臣だったエンヴェルが押し切って経済的に密接なドイツ側へ味方して参戦する方針が固められました。

 西欧列強に倣った近代化を着実に進めたオスマン帝国ですが、「瀕死の病人」として外債返済に迫られるだけでなく次々と支配地域を失っていき、国際舞台における影響力を喪失してきました。干渉を受ける欧州諸国がはじめた戦争も当然無視することはできず、オスマン帝国は母国の存亡をかけた第一次世界大戦へ突入していきます。

大戦緒戦の戦況

 第一次世界大戦が開戦して間もなく、オスマン帝国はイギリス企業に発注していた最新鋭軍艦2隻を受領する最終段階に入っていましたが、イギリス政府の判断により接収されていまします。その代わりにドイツ軍はオスマン軍に地中海艦隊所属の2隻を提供して黒海のロシア海軍と敵対しました。一方、開戦してすぐ国境地のコーカサス山脈を越えて進軍するロシア軍にエンヴェル陸軍大臣は歩兵部隊を派遣しましたが、投入戦力の約9割が死亡する惨事を引き起こします。

ドイツ海軍地中海艦隊の編入

ドイツ軍準用戦艦ゲーベン
※Wikipediaより

 バルカン戦争による混乱から大戦の足音を察知したドイツ海軍は1912年、最新鋭の巡洋戦艦ゲーベンと軽巡洋艦ブレスラウを地中海に派遣しました。仮に開戦すればフランスとドイツ国境線に投入されるであろうフランス領アルジェリアからの兵員投入を阻止することを目的として、同盟国であるオーストラリア=ハンガリー帝国のアドリア海沿いの軍港を拠点としていました。

 開戦時にオーストラリアのポーラ(現:クロアチアのプーラ)に停泊していたゲーベンはイギリス海軍によるアドリア海封鎖を回避するため、イタリアのターラントでブレスラウと合流後にシチリア島のメッシーナで石炭補給を受けました。対してイギリスとフランスの連合国陣営は2隻が地中海の西方へ進み、フランス軍の兵員投入を阻止するかドイツ本国へ帰国すると見込んでいたため、アドリア海やエーゲ海などオスマン帝国方面へ向かう航路の監視を緩めていました。一方、ドイツ本国からオスマン帝国と密約を結んだ情報を得たゲーベン一行は地中海を東方へ進んで黒海を目指し、少数のイギリス艦隊を振り切って1914年8月16日にオスマン帝国の首都コンスタンティノープル(現:イスタンブール)に到着。ドイツ海軍地中海艦隊の2艦はすぐにオスマン帝国へ売却されると、ゲーベンはヤウズ・スルタン・セリム、ブレスラウはミディッリに改名され、ドイツ海兵もそのままオスマン帝国軍属となりオスマン海軍艦船の各艦を取り仕切りました。

 イギリス製最新鋭艦の代わりにドイツ製最新鋭艦を加えてドイツ士官が加わった事実は、オスマン帝国をドイツ同盟国陣営として参戦させる口述として十分なものとなりました。ヤウズ・スルタン・セリムはオスマン海軍旗艦として役割を果たし、全面的な宣戦布告に先んじて露土間の開戦状態を引き起こすキッカケとなったロシアのセバストポリ砲撃をはじめ、同年11月のサールィチ岬の海戦で活躍。翌12月には機雷接触から戦線離脱するも1915年4月に戦線へ復帰すると、地中海やマルマラ海といったオスマン帝国本土周辺海域を中心に終戦まで活躍を続けました。ミディッリは1918年の機雷接触で沈没したものの、旧式艦船ばかり目立っていたオスマン海軍を率いるドイツ地中海艦隊2隻の存在は敵対するロシア海軍黒海艦隊の脅威として恐れられたのです。

カフカース戦線とアルメニア人虐殺

オスマン兵の死体を処理するロシア兵
※Wikipediaより

 ヤウズ・スルタン・セリムなどによるセバストポリ砲撃に激高したロシアは1914年10月31日、オスマン側による正式な参戦を待たずに宣戦布告。当時露土国境にあったコーカサス山脈から現在のジョージアを横断してオスマン帝国内に進入しました。エンヴェル陸軍大臣は呼応してインド方面を目指す歩兵部隊を派遣、サリカミッシュ会戦がはじまります。

 しかし、冬場のオスマン帝国北東部はマイナス20度にも達する極寒地帯だったこともあり、オスマン軍は約12万もの大軍を投入したにも関わらず1万を超える兵士が戦闘することなく凍死しました。先手を取ったロシア側も東部戦線で苦戦を強いられる状況を打開するため、年明け1915年1月にサリカミッシュ会戦の勝利を確定させると目立った攻勢をかけませんでした。むしろ、凍死したオスマン兵の死体処理を寒冷地慣れしているロシア兵が積極的に勤しみ、オスマン側も都度派兵するも後述するガリポリ戦線への兵員投入の兼ね合いから十分な兵員補充ができず、1916年頃には地元のアルメニア人を味方に付けたロシア優勢の戦況が続きました。カフカース地方にはキリスト教徒のアルメニア人が多く住んでいたため、ロシア軍は不足する兵力を同じキリスト教徒であるアルメニア人から義勇兵として勢力に取り込むことに成功したのです。一方、オスマン軍はアルメニア人による反オスマン感情の抑制を念頭にアルメニア人虐殺をはじめ、50万人~100万人ものアルメニア人が命を落としたとの推計が残されています。

 大戦後半になるとロシア革命による混乱からロシア軍が撤退を開始し、オスマン軍も追撃するだけの十分な兵力を持ち合わせていなかったため、カフカース戦線における戦闘は大戦初期だけ大きく動くことになりました。とはいえ大戦終了後、アルメニア人虐殺による憎悪の反動はトルコ人とアルメニア人にしこりを残すことになり、今日になってもクルド問題と絡んでトルコの領土論争は解決していません。

ガリポリ戦線

 ドイツ地中海艦隊の入港とカフカース地方における戦火拡大はロシア軍に緊張感を与え、タンネンベルグの戦いで敗北したことも相まってロシアは英仏両国にオスマン帝国へ攻め入りよう懇願します。対してイギリスはオスマン帝国の首都コンスタンティノープルへ続くダーダネルス海峡を攻略するため、イギリス海軍発案による作戦を実行に移します。

大規模艦隊戦での敗戦

ガリポリの戦い緒戦の進行図
※Wikipediaより

 戦艦だけでも18隻が編成された英仏連合艦隊は1915年2月17日にダーダネルス海峡のガリポリ半島へ砲撃を開始。海峡口周辺にあるオスマン軍の砲撃拠点を抑えましたが、3月4日からオスマン軍による反撃がはじまり海峡沿いの砲撃部隊もイギリス軍掃海艇に砲撃を浴びせました。

 苦心して機雷を取り除き3月18日、連合艦隊は戦艦による海峡突破を図りましたが3艦撃沈・3艦大破という無残な結果を残して一度引き上げます。4月下旬には再び陸軍主導による上陸作戦に切り替えて攻め込みますが、オスマン軍士官ムスタファ・ケマルによる要所防衛などが機能して5月頃には戦況が膠着状態となりました。これを打開するため両軍とも潜水艦を展開、オスマン軍はマルマラ海に進入したイギリス潜水艦に輸送船を撃墜され、イギリス軍も戦艦3艦をオスマン軍艦艇とドイツ軍潜水艦に沈められました。一方、イギリス本国では政治混乱によって海軍相ウィンストン・チャーチルが内閣を去るなど混乱が続いて、ガリポリ半島における作戦続行の意味を疑問視する意見が沸き立ちはじめガリポリ戦線の連合国兵の士気もみるみる落ちていきました。

8月の大攻勢

ガリポリ戦で指揮を執った
ムスタファ・ケマル
※Wikipediaより

 ガリポリ戦を扇動したチャーチル海軍相が1915年5月にポストを離れると、ガリポリに上陸した連合軍兵は「自分たちが見捨てられたのでは?」と疑心暗鬼に駆られるようになります。しかし、チャーチルは新内閣に根回しして5個師団もの大援軍をガリポリへ派兵させることに成功させました。

 これを踏まえて、連合軍上層部のみで大攻勢を仕掛ける計画が秘密裏に進められましたが、情報は平然と漏れて夏場に連合軍が総攻撃を企てている噂は瞬く間に戦場へ広がります。そして8月6日夕方よりガリポリ半島全域で連合軍の大攻勢がはじまりました。連合軍は予定していたチュヌク・ベア高地へ迫ったものの、半島付け根に上陸した部隊の指示系統がマヒして動かなかったためオスマン軍に拠点を奪取されました。以降、8月末までに連合国上陸部隊はオスマン軍に海岸線へ追い込まれ、秋に入ると戦闘は次第に鎮静化。12月から年明け1月までに連合軍はガリポリ半島から撤退します。オスマン軍は勝利し、最戦線で指揮を執り続けたムスタファ・ケマルは「祖国の英雄」としてオスマン帝国民を勇気づけました。また、ガリポリ半島で敗戦したイギリスでは政権を揺るがす事態となり、ハーバード・H・アスキス挙国一致内閣が崩壊する大きな要因ともなりました。

メソポタミア戦線

 イギリスはガリポリだけに留まらず、オスマン帝国領内に点在する石油権益も大戦を折に狙っていました。ゼバストポリ襲撃の報復としてロシア軍がカフカース地方へ進行していた時期、イギリス軍は占領下のインド軍を引き連れて現在のイラク周辺にあたるメソポタミアに進軍してオスマン軍と対峙しました。

クート防衛戦

クート周辺の進行図
※Wikipediaより

 メソポタミア地域における石油探索は19世紀末からオスマン帝国に干渉する各国によって本格化していましたが、イギリス資本による石油採掘会社が20世紀初頭に設立されるとイギリスは石油利権を確保します。ただ、当時のメソポタミアはバグダッドを中心としたオスマン帝国による統治が行き届いていたため、石油利権を盤石とするためイギリスは軍を派兵させるのが最善手と考えていました。

 オスマン帝国参戦後すぐにイギリス軍がインド軍を引き連れて港湾重要拠点のファオ要塞を襲撃したのはそのためで、重砲を活用して3日ほどでイギリス軍はオスマン帝国のペルシャ湾支配権を抑えました。続いてイギリス軍は内陸へ進軍してバスラ、ナースィリーヤ、クートを制圧していき1915年10月バグダッドの南東160km地点に迫りました。しかし、同年11月下旬にバグダッド市街地近くのクテシフォンでオスマン軍が勝利するとイギリス軍はクートに敗走して籠城戦を開始します。オスマン軍ははじめ急襲戦法で攻略しようと試みましたが成果を得られないどころかイギリス軍の増援も迫ってきたため、正攻法と塹壕戦を基軸にした戦術に切り替えると増援を追い払うことに成功しただけでなく、イギリス軍の攻勢や物資補給網を絶つことに成功。1916年4月にクート籠城部隊は降伏しました。以後、イギリス軍はバグダッド進撃を冬まで自重する様になりオスマン軍はカフカース方面のロシア軍へ警戒を向けやすくなりました。

バグダッド陥落

 クート籠城戦でイギリス軍が敗北したことで、カフカース方面に展開していたロシア軍はバグダッド攻略が難しくなりました。というもの、イギリス軍がペルシャ湾より北上して、ロシア軍がカフカースから南下して、挟み撃ちにしてバグダッドを攻略する算段が崩れたのです。

 しかし、イギリス軍はペルシャ湾から兵員物資ともに充実させ1916年12月から再攻勢をかけると、翌1917年2月に難所クートを陥落させ、3月にはオスマン軍の重要拠点だったバグダッドを占拠。メソポタミアのオスマン勢力を瓦解させました。以来、ガリポリにおける兵員消耗や後述するパレスチナ方面の足止め策によってオスマン軍は兵員物資を補充出来ず、押し寄せるイギリス軍にじりじりと後退せざるを得ない劣勢に追いやられます。1918年夏場にバグダッドから北上したキルクーク周辺でにらみ合う状況となり、オスマン軍は最後の攻勢に出ましたが10倍以上のイギリス軍の前にアル・シャルカトで敗北を喫し、約8,000人ものオスマン兵が捕虜となって終戦を迎えました。この結果、イギリスはメソポタミアにおいて莫大な石油権益を確保し、戦後もイギリス政府傀儡のイラク石油会社を設立して欧米諸国の民間企業と油田収益を分配し合うビジネスを確立させたのです。

パレスチナ戦線

 大戦中盤においてもオスマン帝国はメソポタミア方面で善戦していましたが、兵員補充が間に合わず人員物量で勝るイギリス軍に敗退を繰り返すようになりました。その要因として挙げられるのが、アラビア半島南西部のヒジャーズ地方に駐屯していたオスマン師団の動きを抑えていたアラブ人反乱です。イギリスは考古学者のトーマス・E・ロレンスを現地へ派遣してアラブ人有力者を焚きつけ、欧米諸国では「アラビアのロレンスと共に」という冒険譚として彼の存在がアラブの戦いの象徴として扱われる様になります。

アラビアのロレンス

「アラビアのロレンス」こと
トーマス・E・ロレンス
※Wikipediaより

 オックスフォード大学で中東の砂漠事情を研究していたロレンスは第一次世界大戦が開戦すると招集を受け、エジプトのカイロ陸軍諜報部にて軍用地図作成とアラビア語を用いた現地人との通訳の任務に従事しました。その後、1915年にアラブの盟主ハーシム家とイギリスとの間にフサイン=マクマホン協定が締結されると、ハーシム家はヒジャーズ王国を名乗りオスマン帝国へ反旗を翻すゲリラ戦を展開します。

 翌1916年にロレンスはハーシム家と接触する機会を得てハーシム家当主の三男ファルサイ・イブン・フセインらと共闘をはじめ、ヒジャーズ地方におけるオスマン帝国軍の生命線であるヒジャーズ鉄道の路線や車両に奇襲を繰り返しました。結果、アラビア半島南西部のオスマン軍は苦戦するパレスチナ方面への派兵が難しくなり、拠点のメディアを中心としたヒジャーズ鉄道の主要拠点を死守せざるを得なくなります。ロレンスとアラブ反乱軍は続いて1917年7月に紅海沿岸の重要港湾都市であるアカバを占領し、後述するイギリス軍による聖地エルサレムの占領やメギッドの戦いの勝利に寄与しました。

 ですが終戦後、イギリスは戦時中にフランスとロシア帝国と交わしたサイクス・ピコ協定により、崩壊したロシア帝国を除いて中東アジアの統治権を分割しただけでなく、聖地エルサレム周辺にユダヤ人国家を建国するバルフォア宣言によって、東欧で迫害を受けてきたユダヤ人がパレスチナに入植をはじめるなど、フサイン=マクマホン協定で取り決められた汎アラブ国家構想は白紙と化しました。失望したロレンスはアラブを離れて軍人として生きていく道を選びましたが、その後欧米諸国でロマンあふれる冒険譚として語られる自身の物語に負い目を感じながら1935年にバイク事故で死亡しています。

シナイ半島の最終決戦

メギッドの戦いの進行図
※Wikipediaより

 開戦以来、シナイ半島やパレスチナでオスマン軍と戦うイギリス軍はスエズ運河を陣地として敵を追い払い続けましたが、1916年末より攻勢へ出るとオスマン側による塹壕戦に苦戦してシナイ半島より先に進撃できませんでした。ですが、アラブ反乱軍とロレンスの調略によってエジプトやパレスチナにおけるイギリス軍の状況は優勢へ傾きます。

 ガリポリ戦以来、オスマン軍は慢性的な兵員不足に陥っていたにも関わらずメソポタミア方面で要所バグダッドを失うなど、カフカース方面は優勢に転じたとはいえ戦線維持が厳しい状況に陥っていました。それに加え、ロレンス達の活躍によりヒジャーズ鉄道からの兵員補充が満足にできない負のサイクルが続き、戦法としても欧州戦線で広まり始めた機動戦術ではなく旧態依然の陣地堅守の考えから転換できずにいたのです。オスマン軍の兵士も連戦連敗が続く状況で士気が落ちており、特にアラブ反乱軍の活躍を逐一耳にしていたアラブ系オスマン兵が旅団から脱走するなど規律も乱れていました。

 対してイギリス軍は1917年10月末に港湾の要所ガザへ攻め入るふりをした欺瞞進撃によってキリスト、イスラム、ユダヤ各宗教の聖地エルサレムを攻略すると、ヒジャーズ地方からのアラブ軍やロレンス達と合流します。西部戦線の大攻勢によってオスマン兵を支援するドイツ軍がパレスチナから去る様子を見るや、終戦間際の1918年9月に地上部隊、航空部隊、ラクダ乗馬部隊など7万人以上の戦力をもってメソポタミアへ進撃。イギリス空軍による通信網遮断で早々に作戦伝達網を破壊されたオスマン軍は敗走を続け、アナトリア地方(現:トルコ本土)にまで追い詰められたところで戦争は終わりました。メギッドの戦いと呼ばれる一連の大攻勢でオスマン帝国は中東の支配権を失っただけでなく、戦後の欧州列強による領土分割を見守るしかなくなります。

戦後混乱とトルコ共和国成立

 メギッドの戦いで大敗を喫したオスマン帝国に更なる危機が訪れます。それまで、バルカン半島で首都コンスタンティノープルを死守していた同盟国ブルガリアが降伏し、ギリシャやセルビアといった連合国側の軍勢が首都へ押し寄せる恐れが浮上したのです。陸軍大臣エンヴェルもこれ以上の好転は望めないとして1918年10月30日、ギリシャのリムノス島ムドロス湾にてムドロス休戦協定に署名。1920年8月10日のセーヴル条約にて連合軍によるオスマン帝国領の分割が承認されました。

 しかし、大戦の英雄となったムスタファ・ケマルを中心としてムドロス休戦協定を呑んだオスマン帝政に対する反対運動が過熱、アンカラを拠点とする大国民会議と政府を樹立してアナトリア西部に上陸したギリシャ軍と衝突する希土戦争が発生しました。その後、オスマン帝国本土との自認が強かったアナトリアを統治したアンカラ政府はオスマン王家を国外追放し、新制トルコ共和国として民主国家の船出を迎えました。反乱を取り仕切ったムスタファ・ケマルは初代大統領に就任、民族共和を是とするケマル主義をトルコ国内に定着させて1938年に肝硬変を悪化させ死亡しました。以来、トルコ共和国は第二次世界大戦では中立を表明して末期に連合国側へ組みするなど、疲弊した国土を外交で守りつつ次第に旧西側諸国へ近寄って国内経済を活性化させる施策を模索していきました。

現代中東問題のはじまり

 一方、セーヴル条約による統治分割は中東社会に大きな禍根を残すことになります。ロレンスと共にアラブ人国家建国を夢見たファイサルはバルフォア宣言によるユダヤ人入植を容認せざるを得えず、シリア・アラブ王国の国王となるもフランスとの対立が激化して仏叙戦争が勃発。シリア・アラブ王国は崩壊してフランス委任統治領シリアに変わり、追われたファイサルはイギリス委任統治領メソポタミアに逃げ延び、1932年に独立国イラク王国の国王となるも翌年体調を悪化させてこの世を去りました。

 そして、シリア・アラブ王国やハーシム家によって建国されたヒジャーズ王国はサウジアラビア、ヨルダン、イラク、イスラエルなどに分割され、アラブ人による統一国家建国の夢は砕かれました。特にフランスはシリア地域の委任統治領を現在のシリア政府へ権力移譲する際に西欧諸国が影響を与えやすいよう少数のシーア派系政治家を優遇し、シリア地域で大多数を占めるスンニ派市民を冷遇する体制を確立させ、21世紀に発生したシリア内戦の遠因を生み出しています。加えて、トルコ、イラク、シリア、イランなどに居住するクルド人の生活圏を考慮せずに英仏はオスマン帝国領を分割したため、今日においてもクルド人勢力による独立闘争が止むことはありません。オスマン帝国による安定かつ平和な統治体制が崩壊して以来、未だ中東は争いの最中で苦しんでいるのです。